夫・B男さんが足や腰が痛くて歩けなくなり、介護認定を受けた妻・A子さんの話です。

 認定の調査のために訪ねてきたケアマネジャーの男性は、B男さんの日常生活について細かく細かく聞いていきます。以下のような会話が続きます。

ケアマネ:家事はどなたがなさっていますか。
A子  :わたしがしています。
ケアマネ:あ、オクサマですね。食事を作ったり洗濯も全部オクサマですね? お買い物もオクサマですか。
A子  :はい、夫は足が痛くて歩けませんので。
ケアマネ:お買い物もおできにならない? ご自分の着る物などのお買い物もオクサマですね?
A子  :はい。
ケアマネ:家の中ではどうですか。お風呂はどうですか。おひとりで入れますか? それとも、オクサマが手伝って?
B男  :いや、それは自分でやってる。風呂場に手すりをつけたし、そなえつけの椅子もあるから自分でできる。
ケアマネ:オクサマが手伝って背中を流したりしますか。
A子  :いえ、それは自分でやっています。
ケアマネ:あ、そうですか。お風呂はご自分で。お風呂に入るとき、シャツを脱いだり着たりはオクサマが手伝っていますか。
A子  :いえ、それも自分でやっています。
ケアマネ:トイレはどうですか。ズボンを上げたりおろしたりはどうですか。オクサマが手伝ったりなさいますか。
B男  :いや、今のところはひとりできるから大丈夫。
ケアマネ:お金の管理はご自分でできますか。オクサマがなさってる?
A子  :自分でできます。

 オクサマ、オクサマと何度も何度も言われて、A子さんは気分が悪くなったと言います。オクサマは夫のことは何でもしなければいけないのでしょうか。夫に代わって手取り足取りするのがオクサマの仕事なのでしょうか。ケアマネさんは、本人ができることまでオクサマがするものだと思っているのではないのでしょうか。そんなことをしたら、本人の残っている力まで奪ってしまう、とA子さんは思います。

 後日、担当者会議というので、やってきた別のケアマネさんに、A子さんは言いました。介護認定の調査に来たケアマネさんにオクサマ、オクサマと連発されて不愉快だったと。すると、次のような答えが返ってきたそうです。「調査員は、介護度を認定する材料として、家族にどのくらい負担がかかっているのかを知りたいのです。オクサマに押し付ける意図で聞いているのではないのです」と。

 そうは言われても、A子さんは納得できません。もちろん、本人ができないことがどのくらいか知りたいのはわかります。家族の負担を考えてくださるのはありがたいです、しかし、それならオクサマがするのが当然のような聞き方でなくてもいいはずです。手助けが必要かどうか知るためだったら、次のように聞いても十分介護の負担はわかります。

「ご自分で買い物ができますか。どなたかの手伝いが必要ですか」
「シャツの脱ぎ着は、おひとりでできますか。それともだれかの助けがいりますか」
「お風呂で背中を洗えますか。どなたかに助けてもらっていますか」

 年をとれば、いままでできたことができなくなることは仕方がないことです。そのできなくなったことを手伝うのが介護だとしても、それは全部オクサマが担わなければならないのでしょうか。それを社会が担うために介護保険ができたのではなかったのでしょうか。そのために高い保険料を払っているのではないでしょうか(実際には年金から引かれているのですが)。

 ケアマネさんがオクサマ、オクサマを連発するのを聞いていると、夫も当然オクサマがするものと思い込みます。それも困ります。自分でできることもオクサマがするのが当然と介護のプロのケアマネが言うのですから、本人はオクサマにもたれかかります。自分ができることまでオクサマにやってもらうのが当然と思ってしまうでしょう。

 ケアマネさんたちが、オクサマ、オクサマ(妻の方が介護が必要なカップルではゴシュジン、ゴシュジンでしょうか?)と訪問先の各家族に言っているのかと思うと、日本の介護の姿がわかってきます。家族に、特に配偶者である妻に介護が偏っている姿です。

 家族がいる人は家族が面倒を見るのが当然という考え方、それが介護離職や介護負担による殺人や自殺にもつながっています。 実際に介護する家族のひとりになってみて、A子さんは、ケアマネさんたちの意識が家族中心であることを知って驚いたと言います。介護が始まったら、その家族の人生がそこで止まってしまってもいいのでしょうか、とA子さんは疑問を投げかけています。