先日たまたま人に連れられ、写真家ソフィ・カルの展示「Parce que(なぜなら)」を観に銀座へ行ったとき感じたことのメモを綴らせていただきます。恥ずかしながら芸術にはとんと疎く、あまり彼女の作品は知らないのですが(考える芸術、なのかなあという漠然とした印象しかなかった)、感想と、このところの会田誠氏問題についても少し思ったことがあるので、そのあたりも少し。

このソフィ・カルの展示は、品川の原美術館で大きな企画が開催されていて、その関連で小規模な個展が銀座と六本木で開催されていたひとつで、新作とのこと。写真の上に文章の書いたフェルトが掛けてあって、持ち上げて写真を観る、というもの。タイトルに示されているように、この写真を撮影した理由、が書かれている感じ。作品を観ただけでは全てを感じることはできないけど、撮影にはそれぞれ物語があることがわかる。

作品というものは作家の主体性の表れであり、観る側はその主体性を感じ取りながらも、自分の想像力や解釈でもって作品を観ているのだとあらためて確認させられる。各作品の、彼女がその写真を撮影した理由について、観る側として納得することもあれば、疑問に思うこともある。メディアにも取り上げられてる「Sans enfants, sein(子供なし、胸)」、という作品は、彼女が子どものいない女、という側面からのみイメージづけられ説明されるネット上の言説にたいし、いわゆる「子どもに授乳する女」の設定で「ほんのお遊びとして」自らを写し残したものだそう。イメージの撹乱や抵抗といった大袈裟なものでなくても、我々の先入観や勝手な決めつけを揺さぶる。

芸術作品に限らずとも、メディアでも、人と接する時でも、各々の主体性と、想像力と解釈と、無意識もしくは意識的な決めつけと、そのあたりを行ったり来たりしながら、人は生の営みをしてるのかな、と思う。その行ったり来たりの中に、柔軟に自らを省みることができないなら、それは差別や暴力につながるのではないか。自分がこういう意図で表現したのだから、どんな解釈も、それで傷つくことや批判することも拒絶する、ではそれは芸術として不健全。また、観る側が、これは差別だ暴力だ、というレッテルを貼り、議論も許さずその作品を封じ込めることもまた、不健全であると感じる。

ふり返って、少し前から、大学の公開講座の件であらためて話題になっている会田誠氏の問題(話題になってる流れを知らない方は検索とかしてください)。

講座で無理やり暴力的な作品や作家の語りを経験させられたことと、作品自体の問題は少し分けて考える必要があると思う。今回の問題の所在はこういった講座のあり方が適切だったのかということだそうだけど、そのことは限られた情報で議論するのは難しい気がするのでちょっと置いといて、かつての森美術館問題などのときから、ある意味古典的なフェミニズムの文脈で議論されてきた、性暴力的な芸術表現をどう観るのかということについて。

作品が作家の主体性であるからには、作家はそれに責任を持たなければいけないし、暴力や差別を描くなら、「なぜ」描いたのか、批判する人たちを軽んじず、行ったり来たりの、責任持った説明をして欲しいと思う。もっといえば、批判に耳を傾けたうえで、制作した意味、「なぜなら」、を責任をもって主張し続けて欲しいと思う。同時に、その作家や作品の支持者も、批判者(支持も批判もおそらく多様)も、なぜ支持するのか、批判するのか、同じく責任をもって語り続ければよい。お上品な芸術VS抵抗の芸術、みたいな一辺倒な構図で語られるのも、つまらない。何かの枠組みに押し込める議論では、賛否以前にその芸術が硬直した退屈なものになってしまう。

しかしたとえば、批判されている作品が性暴力的であるということにたいし、女性への暴力(それが女性にたいしてだからフェミニズムの文脈で批判があるだけで、誰かを貶める表現はどんな場合でも批判の対象となりうる)を描くことが、タブーを犯す快楽、常識への抵抗、という意味づけや反論には納得がいかないという声もすでにたくさん見受けられる。対「常識」の抵抗だとしても、実質的には女性への敬意を欠いた昔ながらの退屈な暴力に過ぎない。女を犯すことはこの社会ではタブーでも抵抗でもない、昔ながらのアリがちな男性中心主義的文化なだけ、というような。

そういった声や蓄積された議論を封じ込めるのではなく、意味のある表現なのだったら、それでもなおその表現を行う理由、「なぜなら」で反論してほしいと思う。中には、傷つけない表現しか許されない、として暴力的な表現そのものを禁じてしまえばよいという主張も昔からあるが、それもまた解釈の相互作用を尽くさず澱ませてしまう。差別や暴力のレッテルを貼ることで(今風に言えばポリコレ的に)規制すればよいということには同意できない。しかしながら、「アート無罪」なんて言葉で思考停止し、もし批判に向き合うことなく、自身の主張のみで作品や制作の姿勢を貫くなら、不健全で軽薄な議論になってしまう(観たくない人は観なくて済む環境を作ること自体は、議論し続けないといけないが)。

なんだかレッテルの張り合いのような論争を観ていて、芸術に限らず、考えることが面倒くさい、ださいこと、みたいになってる社会って本当にしょうもない。ひとまずは、ソフィ・カルのメッセージを観てあらためて感じたことは、多様な視点を尊重する社会であるからこそ、表現には責任を持つことの意味を、作品を生み出す立場の方だけでなく、なんらかの表現を日々行うすべての個人が心しておく必要がある、ということだった。