もう40年前になるかな、底冷えのする京都の2月、雪の降りしきるなか、私は女のスペース「シャンバラ」へと自転車を走らせていた。京都の西「円町広場」の地下の一室。下り階段の両側には、女たちが空へ飛び立とうとする等身大の鮮やかな絵が壁いっぱいに描かれていた。

 初めて訪ねてきた私を、シャンバラ・シスターズは優しく迎え入れてくれた。たまたまそこにいらした京都の三木草子さんと奈良の門野晴子さんともお会いできた。お二人のお話を伺って、もうびっくり。こんなにもいきいきと輝いている、私と同じ世代の女の人がいるなんて。そしてこの日、遅れて、リブに出会い、ようやく遅い目覚めに気がついた私。33歳の時だった。

 その1年前、義母の看病のため、自ら望んで千葉から京都へ引っ越してきた。病院と家との往復と家事と子育てに明け暮れる日々。家を一歩も出られず、外で話すのは八百屋と魚屋のおじさんとおばさんだけ。夜、一人で本を読みながら「なんかおかしい」と思いつつも、「私がやらなければどうするの?」と日々の暮らしを肯定し、「主婦的状況」を鬱々と生きてしまっていたのだ。今思えば、田中美津さんの言う、「川へ洗濯に行ってしまう女」を、自ら望んで選びとっていたのかもしれない。

 やむにやまれぬ思いや言葉を語りたい。語る主体を与えられてこなかった女たちのために、スペース「シャンバラ」はあった。1982年5月、「シャンバラ」は解散を余儀なくされてしまったけれど、その後も京都では「おんな解放連絡会(OKAIREN)」や「とおからじ舎」など女のグループが、それぞれの運動を続けていくことになる。

 「便所からの解放」とは、女が、母性のやさしさ=母か、性欲処理=便所か、二つのイメージに分かれていることからの解放の呼びかけだった。そのように「やさしさの性と官能の性」をトータルに持つ女は、つくられた男の分離した意識によって部分化されて生きなければならなかったのだ。

 田中美津著『いのちの女たちへ-とり乱しウーマン・リブ論』を読み進むうち、「わかってほしいは乞食の心」という一節に出会って、ハッとした。その頃、元夫に、まるで畳を叩くように「わかってほしい」と必死に語りかけていた私にとって、胸にストンと落ちる衝撃の言葉だったからだ。

 リブの女たちが書くビラは、今、そこにいる、どこにでもいる女たちへ、語る女と語られる女が、肌で共感しあいながら、かけがえのない「対話」をつむいで、全国各地へと広がっていった。
「貞女は、貞女であることによって銃を支え、朝鮮の女を凌辱することによって加担したのだ」
「百人の女のうち一人の女が卑しめられた時、それは九十九人が卑しめられたことであり、百人の女のうち一人のエリート女が自らの上昇志向を満たす時、それは九十九人の犠牲の上で成り立っていたのだ」(ぐるーぷ闘う女)。

 ある女友だちは、70年代初頭、三里塚闘争からの帰り道、当時、高井戸にあった女たちの共同保育所「東京こむうぬ」に立ち寄る。夫と離れて女たちで子を産み育てるコミューンで暮らしたいと思って。でも部屋に入った途端、畳の上に積み上げられたおむつの山を見て、「ああ、やっぱり無理かな」と思い、諦めて家に帰ってきたという。あの頃は、そんな熱のある時代だったんだなあ。

 1990年代はじめ、資料『日本ウーマン・リブ史』全3巻(溝口明代・佐伯洋子・三木草子編/松香堂)が刊行される。1980年代、女の運動もリブからフェミニズムへと紆余曲折を経ていく。私もまた離婚を経て、一人で生きていくことになった。運動で知り合った中西豊子さんに誘われ、なんとありがたいことに、『リブ史』全3冊の編集に携わることができたのだ。 3人の編者たちの熱い思いと出版元の中西さんの女の意地と。ダンボールに積まれたビラ1枚1枚をかき集め、散逸することなく本を刊行することができたのは、ほんとに稀有なことだった。あの時、『リブ史』が生まれていなかったら、この世にリブはなかったことにされてしまったかもしれないから。

 そして2009年、女たちのポータルサイト「ウィメンズアクションネットワーク(WAN)」が立ち上がった。活字からウェブへと時代はどんどん変わっていく。でもうれしいことに『リブ史』も女たちの数々のミニコミも、みんなWANのサイト「Document-WAN ミニコミ図書館」にアーカイブとして保存されている。膨大な資料を電子化作業でアップしてくださったD-WANの方々に頭の下がる思いがする。どうかみなさん、ミニコミ図書館のアーカイブを開いて、読んで活用してほしいと思う。

 そして今年、WANは10周年を迎えた。5月18日、京都・同志社大学でシンポジウム「闘うフェミニズム再び-怒りを力に社会を変える」を開いた。女たちの怒りは今も昔も変わらない。「怒りから変革へ」。各地で運動を繰り広げる女たちやグループ、海外からのメッセージも含めて、とびきり元気なスピーチが飛び交った。会場に全国からWANの会員が駆けつけてくれた。当日の参加者も大勢集まって、賑やかな怒りの集会となった。


 その一週間後、田中美津さんが京都にやってきた。ドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」(吉峯美和監督)の10月上映を前にして。映画づくりのクラウドファンディングに協力すると、『この星は、私の星じゃない』(岩波書店・2919月5月23日)の著書に美津さんがサインしてくださる。「誕生日の翌日、あなたに会えた」とネコの絵の横に書いてくださった。まあ、うれしいこと。そして初めて美津さんのお話をじっくりと聴く。

 「からだは心で、心はからだ」という美津さん。今は鍼灸師。一言、一言、語る言葉が生きている。それに目ヂカラがある。まるで私一人に向けて語ってくださるような、強いまなざしを受け止めた。

 「不平等から人生は始まる。それは天から降ってくる。私に起こったことは他の女に起こったことと重なり、女から女たちへとつながっていく。自分と世界をカクメイする。自分のぐるりのことからつなげて変えていく。そうでないと自分ひとりも解放できないじゃない?」。
「私たちはみな、他人の言葉を、自分のものの見方、考え方のフィルターを通して理解する。だから私の言葉を相手がどう感じたかで、あぶりだされるのは、その人自身じゃないの? 私自身はその時々に溢れる思いのままに言っているだけよ」。

 リブからWANへ、女たちは途切れずにつないできた。その先は? さらにWANの10年後、20年後を、しっかりと見ていこうと思う。女は男より、したたかに生きているから、もしかしたら私、20年後も生きているかもしれない。