インタビュアー:クリスタン・ウィリアムズ
訳:山田秀頌

訳者解説
これは、トランスジェンダーの活動団体トランスアドヴォケイトによる2014年のジュディス・バトラーへの
インタビュー記事“Gender Performance: The TransAdvocate interviews Judith Butler”
https://www.transadvocate.com/gender-performance-the-transadvocate-interviews-judith-butler_n_13652.htm)の全訳である。

昨年より、フェミニズムの名の下におけるトランスジェンダー排除の言説が主にオンライン上で猛威を振るっている。
すでに指摘されているように[1]、フェミニズムによるトランス排除の言説は1970年代にはアメリカで既に噴出していたのであり、今日の日本における排除言説もまた、その大きな部分を、英語圏で排除言説の代表的担い手となったジャニス・レイモンド[2]や、シーラ・ジェフリーズ[3]といったレズビアン・フェミニストらの主張の延長線上に位置づけることができる。
本インタビュー記事は、フェミニズム/クィア理論家としてのジュディス・バトラーによる、そうした「フェミニズム的」な排除の理論に対する断固とした反対の意思表明であると同時に、バトラーの理論とトランスの経験との関係をめぐる様々な疑問にも応答するものである。

バトラーの理論、とりわけ1990年の『ジェンダー・トラブル』の「セックスはつねにすでにジェンダーである」という有名な定式はよく知られている。この定式は、本質なきジェンダーの流動性や虚構性をあばき、二元的なジェンダー規範の越境・攪乱を擁護したものとして一般に受容された。
こうしたジェンダーの攪乱への志向が、トランスは性別適合手術を必ず経て規範的な女性や男性にならねばならないという、医学的なトランスセクシュアリティ(トランスセクシュアリズム)の定義に対する抵抗として、非常に重要な役割を果たしてきたことは事実である。同時にこの定式は、しばしば、セックスもまた構築されているのだから、私たちにとって物質的な性的身体は何ら重みを持つものではなく、重要なのはただジェンダーを演じるその行為の戯れによって規範を「脱構築」することである、というように単純化されて理解された。
このような理解に基づいて、日本のネット空間でも、バトラーに代表されるようなクィア理論が女性の身体(セックス)の確かさを棄却して、融通無碍なトランスジェンダーのイデオロギーを推進している、というような(理論的には根拠に乏しい)非難が反トランスのフェミニストらによってなされてきた。

ジェンダー・トラブル 新装版 ―フェミニズムとアイデンティティの攪乱―

著者:ジュディス・バトラー

青土社( 2018-02-21 )

実際には、バトラーはこの定式によって、私たちの身体に関する主体的な経験の感覚が偽りだと主張したわけではない。そうではなくて、彼女はフェミニズムにおいてセックスとジェンダーの区別の自明性を問いなおすことを求め、この区別によってあらかじめ排除されている身体のリアリティを、擁護することを求めているのである(そして、その区別が問い直しうるものであるのなら、セックスというカテゴリーも社会的な線引きの結果作られたものだということになるだろう)。
その問い直しは、まさに以下のインタビューでも示されている、レイモンドやジェフリーズによるトランス排除の論理への介入としても理解することができる。
彼女たちは、トランスの手術が身体を意味づけなおすということを認めない。彼女たちにとってそれは「生まれ持った身体」(セックス)の「損傷(mutilation)」にすぎず、“ありのままの”身体で「尊厳をもって生きる権利を侵害」するものだ[4]。ここではセックスは社会的な力学の外部におかれた所与とされ、家父長制が構築するジェンダーという「偽り」を廃絶することで十全に可能となるであろう、主体の自由の乗り物とされている。
さらに、レイモンドやジェフリーズにとって、トランスが唯一取りうる倫理的な選択肢は性別移行を断念し、「生まれ持った身体」で生きることである。なぜなら、ジェンダーとは家父長制が私たちに一方的に押し付けるものであるから、トランスがもう一方のジェンダーに同一化することは、家父長制によって操られていることの証であり、ジェンダーの構築の「犠牲者」であることの証だからである。

このような議論に反対して、バトラーは以下のインタビューで次のように発言している。
こうした議論は「私たちがみな、身体として、私たちを形作らせる構築――ないし規範――にいかに沿い、かつ逆らいながら生きるかを積極的に理解することのできる位置にいるということを認めない(強調引用者)」のだと。
社会において身体をもって生きること、それは、私たちが積極的に参与する構築のプロセスのなかで、絶えず身体を意味づけ、意味づけられていくことである。このプロセスは強制的なものであるが、構築は私たちの外部から身体に対して単純に押し付けられるものではなく、身体において生きられるものであり、だからこそトランスの人々は、強制的な構築に抵抗し、新しい仕方で身体を意味づけなおすことを可能とするのである。

したがって、トランスの人々がセックスやジェンダーの境界を超えることは、主体にとってそれらが無意味となるような規範の融解を単純にもたらすものではない。
トランス排除の議論に反対して、以下のインタビューでバトラーが繰り返し強調しているのは、ジェンダーが本質や基盤なき構築であるのだとしても、それは自己にとってセックスやジェンダーがリアルなもの(本物・現実)として、自己を定義する根本的な要素として経験されうるということを、否定するものではない、ということだ。
レイモンド/ジェフリーズにとって、ジェンダーは虚構であるがゆえに廃絶が可能であり、廃絶すべきものである。彼女たちはこの観点の下、トランスの経験に裁判官として介入し、最終的にはトランスの実践そのものが廃絶されなければならない、という地点にまで到達してしまう。
しかしバトラーによれば、あるトランスが二元的なジェンダーから離れて生きたいと望むのか、それとも女性や男性として、自らの希求する身体として生きたいと望むのか、そのいずれであるかに関わらず、あらゆるトランスの身体的な生の現実を生存可能ならしめる自由を、私たちはこの世界において作り出さなければならないのである。

なお、元記事に貼られているリンクを原注としてアラビア数字で付し、訳注をローマ数字で付したことを付記しておく。リンクは現在では切れているものもあることに注意されたい。

翻訳公開を快諾してくださったクリスタン・ウィリアムズとジュディス・バトラーの両氏に感謝する。また、翻訳公開に向けて様々な形でご助力いただき、アドバイスをくださった堀あきこ先生はじめ諸先生方にも感謝申し上げる。

[1] 山田秀頌「「女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない」という主張に、フェミニストやトランスはどう抵抗してきたか」2019年, https://wan.or.jp/article/show/8280.
[2] Janice G. Raymond, The Transsexual Empire: The Making of the She-Male. 1979. Reprint, Teachers College Press, 1994.
[3] Sheila Jeffreys, “Transgender Activism: A Lesbian Feminist Perspective,” Journal of Lesbian Studies, 1(3/4), 1997, 55-74.
[4] このように、彼女たちにとってトランスの手術は反倫理的なものである。他方で日本のトランス排除言説においては目下、女性として認めてほしければ性別適合手術を受けるべし、といった論調が存在している。この点は英語圏の排除言説の伝統とは対照をなしているように思われる。



ジェンダー・パフォーマンス:トランスアドヴォケイトによるジュディス・バトラーのインタビュー

インタビュアー:クリスタン・ウィリアムズ
訳:山田秀頌

ジュディス・バトラーは傑出したジェンダー理論家であり、現代フェミニズムの形成において極めて大きな役割を演じてきました。ジェンダーについて広範囲に執筆してきた彼女の「ジェンダー・パフォーマティヴィティ」という概念は、現代のフェミニズムとジェンダー理論の双方において中心的なテーマとなっています。バトラーの論文や著作の一部は以下の通りです:「パフォーマティブ・アクトとジェンダーの構成」(1988)、『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1990)、『問題=物質化する身体』 (1993)、『ジェンダーをほどく』(2004)。

しかしながら「ジェンダー・パフォーマティヴィティ」の概念は、バトラーの仕事を誤って解釈するようないくつかの立場を支持するために使用されて――悪用されたのだという人もいるでしょう――きました。そこで私はバトラーに対し、ジェンダーやトランスの経験について本当は何を考えているのか、質問したいと思いました。以下のインタビューでは、バトラーは明確にTERFs[Trans-Exclusionary Radical Feminists=トランス排除派のラディカル・フェミニスト]や、シーラ・ジェフリーズやジャニス・レイモンドの著作について語っています。

クリスタン・ウィリアムズ(以下、CW)あなたは多くのトランスの人々が経験する手術について語り、それは「とても勇敢な変容実践」であると述べました[1]。詳しく話していただけますか?

ジュディス・バトラー(以下、JB)変容の実践に対してかくも多くの障壁が存在し、人々や制度がそのような重要な自己定義の実践を病理化したり、犯罪化したりしようとしているときにあってさえ、自分にとって必要で正しいと感じられる変容を経験することにあくまでこだわることは、いつでも勇敢な行為です。私は、これを勇敢というより必要なものと感じる人々もいることを理解しています。しかし私たちはみな、自分にとって正しいと感じられるやり方で生き、呼吸することを可能とするような諸条件を擁護しなければなりません。手術はまさにトランスの人が必要としているものでありえます――同時に、つねにトランスの人が必要としているものではありません。いずれの場合であっても、人は自分のジェンダーとしての生の道程を決定する自由を持つべきです。

CW:多くのジェンダー理論家は、何らかの形で論争の的となっていると言って間違いないでしょう。一部の人は、あなたの著作をシーラ・ジェフリーズのようなジェンダー理論家たちの著作とひとまとめにしてきました。ジェフリーズはこう書いています[2][I]:

******

[トランスセクシュアルの手術を]ソビエト連邦の政治的精神医学になぞらえることができるだろう。私は、トランスセクシュアリズムはこの観点に照らしてこそ、もっともよく理解されると主張したい。つまり、それは人権のあからさまに政治的な医学的侵害なのである。健康な身体を損傷させ、危険で生命を脅かす継続的な治療へと服させることは、そうした人々が、生まれ持った身体、ジャニス・レイモンドが「生来の」身体と呼ぶ身体で尊厳をもって生きる権利を侵害する。これは身体に対する攻撃を意味するものであり、その目的は、ある政治的状況を矯正すること、すなわち政治的に構築された偽りのジェンダーの差異に立脚する男性支配的な社会における「ジェンダー」の不満を矯正することなのだ〔中略〕トランスセクシュアリズムに関するレズビアン・コミュニティにおける最近の著作では、サドマゾヒズムの実践との結びつきが描写されている。

******

CW:あなたの考えがどのように違うものなのか、語っていただけますか?

JB:私はシーラ・ジェフリーズやジャニス・レイモンドには決して同意してきませんでしたし、長年にわたってフェミニズムの議論において全くの反対の立場を取ってきました。彼女は自らを裁判官の位置に任命し、トランスの生やトランスの選択の、いわばフェミニズムによる取り締まりを推進しています。私はこの種の規範主義[prescriptivism]には反対します。それはある種のフェミニズムによる専制を志向するものと思われるのです。

彼女は、社会構築を自分の見解を支持する理論として利用しているのであれば、その言葉を極めてひどく誤解していることになるでしょう。彼女の見解では、トランスの人は医学の言説によって「構築されて」いるのであり、それゆえに社会的な構築の犠牲者です。しかしこの社会構築の考えは、私たちがみな、身体として、私たちを形作らせる構築――ないし規範――にいかに沿い、かつ逆らいながら生きるかを積極的に理解することのできる位置にいるということを認めないのです。私たちは自分が選択したのではない語彙の中で自分を形作るのですが、時にはそのような語彙を拒否し、もしくは積極的に新しい語彙を練り上げなければなりません。例えば、ジェンダーの割り当ては「構築」ですが、それでもなお、多くのジェンダークィアやトランスの人々は、部分的ないし全面的にその割り当てを拒否します。この拒否はよりラディカルな自己決定の道を開き、それは同様のたたかいを経験している他者との連帯において生起するのです。

このような社会構築の概念のひとつの問題は、自分のジェンダーが何であり、何であるべきか、ということについてトランスの人々が感じていることがそれ自体「構築された」ものであり、そしてそれゆえに、本物ではない、と示唆してしまうことです。そしてフェミニスト警察が構築を暴露して、トランスの人の生きられた現実の感覚に異議を唱えるためにやってくるのです。私はこのような社会構築の用法に断固として反対し、社会構築理論の誤った、ミスリーディングで、抑圧的な用法であると考えます。

CW:最近[訳注:2013年]、グロリア・スタイネムはこう書いています[3]:

******

そこでいま、自分の言葉ではっきりさせておきたい。私はトランスジェンダーの人々が、すでに性別移行をした人をも含めて、本物の、真実の生を生きていると考える。トランスジェンダーの生は祝福されるべきであって、疑問に付されるべきではない。トランスジェンダーの医療に関する決定はトランスジェンダー自身のものであって、自身のみが下すものであるべきだ。そして私が何十年か前に書いたもの[II]は、「男性性」と「女性性」の二つだけの箱から離れ、人間のアイデンティティと表現の完全な連続体を生き始めている私たちが今日知っていることを反映するものではない。

******

CW:このスタイネムの表明にコメントすることはありますか?

JB:私は次のことに全面的に同意します。すなわち、トランスジェンダーの人々にとってこの上なく重要なのは、トランスに肯定的な環境を伴う優良な医療へのアクセスを有すること、自らの生を自らが希求するように追求する法的かつ制度的な自由を有すること、そして自らの自由と欲望が全世界から肯定されることである、ということです。このことは、トランスフォビアが個人の態度や偏見の次元において、そしてより大きな教育、法、医療そして親族関係の制度において克服されるときにのみ実現するでしょう。

CW:あなたの理論に関して最も誤解されているものは何であり、それはなぜだと考えますか?

JB:そのような著作についてはあまり読んでいないので、述べることができません。私がジェンダーは「選択」であって、自己の不可欠で動かしがたい感覚ではないと思っている、と考えている人がいることは確かに知っています。私の考えは実際にはそうではありません。自分のジェンダーとセックスの現実が動かしがたいものと感じるにせよ、それほどではないと感じるにせよ、あらゆる人は自己の身体的な生について、法的かつ言語的な表現を決定する権利を有するべきなのです。したがって、「固定配線された」セックスの感覚を生き抜く自由を望むか、それともより流動的なジェンダーの感覚を生き抜く自由を望むかということは、それを生き抜く自由を持つ権利――差別、ハラスメント、傷害、病理化ないし犯罪化されることなしに、そして完全な制度的かつコミュニティ的なサポートとともに――と比べれば重要ではないのです。これが私の考えで最も重要です。

CW:あなたは人間が身体を持つことに関する生得的で主体的な経験を有すると考えますか?もしそうであれば、その経験の一部は第一次性徴を有する身体を持つことをも含むことになるのでしょうか?

JB:その手の事柄について人々が語ることのほとんどはいくぶん推論的です。私は一部の性(セックス)に関する主体的な経験が非常に堅固かつ基礎的で、変更不可能ですらあると理解しています。とても堅固で変わらないものであるがゆえに、私たちはそれを「生得的だ」と呼ぶのです。しかし私たちはその自己の感覚について社会的世界、すなわち自らが感じていることを言語を使用して表現しようとする世界の中で陳述するのだということを考えたとき、いかなる言語がそれを最も効果的に陳述するものなのかは判然としません。私の理解では、「生得的な」という語は固定配線された、構成的な何かの感覚を伝達するものです。私は他の語彙がその役割を同じくらい良く果たしてくれるのではないか、という考えに傾いているのだと思います。私は決して、女性や黒人に「生得的な」劣等性があるという主張が好きではありませんでしたし、そのような語り方をしようとする人々は、社会的な現実を自然の必然性へと「固定/修復[fix]」しようとしているのだと考えてきました。それでもなお、ときに私たちは自分が誰なのかということに関する基本的で、基礎的で、変化しがたく、必然的な側面について触れるために言語を実際に必要としているのであって、性的な身体性の感覚はまさにそのような側面でありうるのです。

CW:一部の人(ミルトン・ダイアモンドのような)はトランスセクシュアリズムに至る遺伝的な要因があるようだと主張しています[4]。こうした主張についてのあなたの考えはどのようなものですか?

JB:ミルトン・ダイアモンドの著作を読んだとき、私はダイアモンドの遺伝学と因果関係についての理解の仕方に疑問を付さざるを得ませんでした。たとえある遺伝子構造が見つかったとしても、それは一つの可能な道筋[development]を打ち立てるものにすぎず、因果的にその道筋を決定づけるものでは全くないでしょう。遺伝学はそれでも、ある特定のセックスやジェンダーにとって、あの「固定配線され」ているという感覚に到達するためのもう一つの別の方法であるのかもしれません。私の感覚では、私たちはみな倫理的に他者が自ら宣言し、規定するセックスおよび/またはジェンダーの感覚を承認しなければならない、ということを理解するために、生得性や遺伝学の言語は必要ではないのではないかと思います。ある人の幸福にとって極めて重要であるようなセックスやジェンダーの存在様式を支持し、承認することが倫理的な義務である、ということに同意するために、その自己の感覚の「起源」について同意する必要はないのです。

CW:「ジェンダー」が、私たちが主体的に自らの生物学的性質を経験し、文脈化し、伝達するやり方を含むのであれば、「ジェンダー」の存在しない世界で生きることは可能だと考えますか?

JB:時には、生におけるジェンダーの重要性を最小化したり、ジェンダーのカテゴリーを混乱させたりして、ジェンダーがもはや記述的な力を持たないようにすることができます。しかし別の時には、ジェンダーは私たちにとってとても重要でありうるのであり、自らへの帰属を求めてきたジェンダーを本当に愛している人々も存在します。もしジェンダーが根絶されれば、多くの人々にとって重要な快楽の領域も根絶されてしまいます。そして自らのジェンダーと結びついた強い自己感覚を持っている人々もいるのですから、ジェンダーを廃止することはそうした人々の人格を破壊することになるでしょう。私たちはジェンダーに関する広く様々な位置を受け入れなければならないと思います。ジェンダーからの自由を望む人もいれば、真にあるジェンダーであることの自由を望む人もいて、そのような人にとって、ジェンダーは自分が誰であるかということにとって極めて重要なものなのです。



キャシー・ブレナン@bugbrennan
#radfem2013 なぜって、損傷された男性の身体は女性の身体ではありません


CW:「ジェンダーに批判的な(ジェンダー・クリティカル)フェミニスト」(TERFs)を自認する人々を、特にネットで見かけます。そのような人々は、トランス女性は単なる損傷された男性であると主張しています。「ジェンダーに批判的なフェミニズム」を利用してそうした主張を行うことについてどう考えますか?

JB:その言葉は知りませんでしたが、トランス女性を損傷された男性と位置付けることは全面的に拒否します。第一に、そのような定式は、男性に割り当てられて生まれた男性は損傷されていないと想定しています。第二に、これはまたもフェミニストをトランスの人々に対する検察官として祭り上げます。この場面で何らかの損傷が進行しているとすれば、それはトランス女性の生きられた身体経験を拒絶するフェミニスト警察によって行われているのです。まさにそうした告発こそ、あらゆるトランスフォビックな言説がそうであるように、「損傷」の一形態です。手術を選択することと、トランスフォビックな糾弾や診断に直面することとの間には倫理的に非常に大きな差異が存在します。トランスの人々にとって最も重大な損傷のリスクはトランスフォビアから直接的に生じているのだと言いたいと思います。

CW:多くのトランスの人々が、女性(women/females)はペニスを持ちうるし、男性(men/males)はヴァギナを持ちうると主張しています。これについてのあなたの考えはどのようなものでしょうか?

JB:女性がペニスを持ち、男性がヴァギナを持つことに問題があるとは思いません。人々はどのような第一次性徴をも(先天的であれ、後天的であれ)持ちうるのであり、そのことはその人がいかなるジェンダーになるのか、またはなりたいと思うのかを必ずしも含意しません。他方で別の人々にとっては、第一次性徴はジェンダーをより直接的に意味するものです。

******

インターセクショナリティという言葉が、おびただしい数の人工肛門バッグを使用することになる不幸な腸の病気か何かのように聞こえるのは無理のないことですし、実際そのバッグには大量の排泄物が入っているのです。ウィキペディアはインターセクショナリティを「複数の異なった、権利を奪われた集団ないしマイノリティ集団の間の交錯に関する学問。特に、複数の抑圧または差別のシステムの間の交錯に関する学問」と定義しており、これはいくぶん成熟した、威厳のあるものに見えます。現実には、それは「ミーン・ガールズ」のこの上なく不愉快な断片からマニフェストを作ろうとしているのであり、そこではとりわけ非白人のフェミニストは、髪質や体型といった白人の特権と感じられるものにグチグチ言うことの方を選んで、家父長制の権力に取り組むという目の前にある課題を迂回することが奨励されるのです。– ジュリー・バーチル[5][III]

******

CW:「インターセクショナリティ」について何か考えはありますか?

JB:ブラック・フェミニズム理論による重要な貢献のことを指しているのなら、私にはたくさんの考えがあります。それは社会的、政治的な分析に対して重要な貢献を行い、「女性」について語るときに人種や階級についてどんな想定が、また「階級」について語るときにジェンダーや人種についてどんな想定がなされているのか、私たちみなが考えるよう求めました。それは私たちがそうしたカテゴリーを開封し、カテゴリーを構成する様々な種類の社会的編成と権力関係を理解することを可能にするものです。

CW:人が自分の同一化や振る舞いの仕方をコントロールしているのであれば、自分の身体の経験の仕方を変えることもできると主張されてきました。例えば:

******

私がこれに取りつかれていることは彼にはお見通しだった。今になってわかる、それは悪魔的なものだったのだ。勉強部屋の床にひざまずき、涙を流しながら、息を詰まらせていると、それをしてはいけない、出て行ってはいけないと命じる声が聞こえた。女性としての自由が待っていた。結局のところ、私は進歩していたのだ。反撃し、声を上げて泣き、後悔し、これまでの人生を責め苛んだ〔中略〕全部18か月前に起こったことだ〔中略〕ドレスや、服や、メイク道具などが入ったスーツケースを彼らに渡した。気が滅入った。それは私にとって重い行動だった。これまで自分を支えてきたものすべてを捨てなければならなかった。そうした物は彼らが処分した。マニキュアを塗るのをやめ、爪を短くし、短い髭を生やした。[ホルモンの]錠剤を全部捨て、何であれ私の欲望と関係のあるものからは背を向けた。牧師に聖書の一節を求めた。毎日見て、男性、父親そして夫としての新しい自由を楽しむことができるような。私はベッドの隣に一枚の紙を置いた。その勇気づける節を毎朝ベッドから出るときに読んだ。内なる女性は死んだとわかった。キリストの力が彼女を破壊し、彼女が表していたすべてを破壊したのだ。18か月がたち、悪魔はいまだ私を説得しようとするが、私がその道を下ることはないと彼は知っている。家族が被る結果は計り知れないからだ。私には何人かの人々に対する責任があり、自分の男性性を楽しんでいる。– Sam’s Story[6]

******

CW:この例では、個人が日々の否定と抑圧の儀式的な実践を、自分の身体を経験する仕方が変わると信じて、行いました。これと幾分似たものに見えるアプローチの下、ジャニス・レイモンドはこう書いています:

******

この論考では、トランスセクシュアリズムの問題は深甚な社会的かつ道徳的な結果を有する倫理的なものだと主張した。トランスセクシュアリズムそれ自体が深刻な道徳的問題であって、医療技術的な回答ではないのである。結論ではこれまでの部分で提起した、より社会的かつ倫理的な論点に取り組む、いくつかの変革のための提案を列挙したい。

道徳性が法に組み込まれなければならないと感じる人が多くいる一方で、私はトランスセクシュアリズムの廃絶はトランスセクシュアルの治療と手術を禁止する法律によってではなく、それを制限する法律によって、さらにそもそもの問題を発生させている性役割のステレオタイプ化に対する支援を減少させる法律によって最もよく達成されると考える〔中略〕

そこでは次のような疑問が提起されるだろう。個人のジェンダーに関する苦痛は、性役割に従属し、性役割のステレオタイプを社会的な次元で永続させるという代償を支払って、緩和されるものなのか?性別を変えることでトランスセクシュアルは、性役割とステレオタイプの永続化によって存続する性差別的な社会を助長しているのか?このような疑問は現在、トランスセクシュアルの治療においてめったに提起されていない。– レイモンド (1980)「トランスセクシュアルの手術の社会的・倫理的側面に関わる技術」[IV]

******

CW:あなたの「ジェンダー」の理解において、これらのどちらかのアプローチが――両方とも行動を(神と宗教的カウンセリング、ないし法律とステレオタイプのカウンセリングによって)コントロールすることに焦点を置いていますが――トランスの人々を廃絶することが可能でありうると考えますか?

JB:このようなアプローチを排除することは私たち全員にとっての義務であると私は考えます。このようなアプローチは苦痛で、不必要で、破壊的です。レイモンドは自分をトランスセクシュアリティが何であり、何でないかを判断する裁判官に任命しているのであり、彼女の著作を読むとき私たちはすでにある種の道徳の牢獄に囚われているのです。この手のいかなる行動主義的ないし「道徳的」アプローチよりもずっと重要なのは、身体的な自己決定を達成しようとする個人や集団のたたかいを記録する、物語、詩、証言や、理論的、政治的な著作のすべてです。私たちが必要としているものは代名詞の世界を問い質し、言語と生の可能性を開く詩です。それは自己肯定を支援し後押しする政治の形態なのです。そして私たちが必要としているものは、行動主義的言説、悪と罪に関するキリスト教的言説と、それら二つの輻輳という専制的で破壊的なジェンダーの取り締まりの形態に対する政治的で愉快なオルタナティブです。

CW:「セックス」は社会構築されていると考えますか?

JB:社会構築とは何かを理解する仕方には様々なものが存在しており、そのような言葉に対しては忍耐強さが必要だと考えます。私たちはいかに二つのセックスのカテゴリーから一つが「割り当てられ」うるのか、そしてもう一つ別の意味におけるセックスがそのようなセックスの割り当てに抵抗し、割り当てを拒否しうるのかを理解する方法を見つけなければなりません。この第二の意味におけるセックスをいかに理解すればよいでしょうか?これは一つ目とは同じものではありません――それは他者が私たちに与える割り当てではないのです。しかしもしかすると、それは私たちが自分に与える割り当てなのかもしれません。そうだとすれば、私たちは前進してまさにそのような私たちが必要とするカテゴリーを要求し、私たちに反して作用するカテゴリーを拒否するために、他者、言語的実践、社会制度そして政治的想像の世界を必要としているのではないでしょうか?

CW:トランスの人々に対して、強いて言えば、自分の著作から何を受け取ってほしいと思いますか?

JB:『ジェンダー・トラブル』はおよそ24年前に書かれたもので、その時私はトランスの問題について十分によく考えていませんでした。一部のトランスの人々は、ジェンダーがパフォーマティブだと主張することで私がジェンダーはすべてフィクションであり、人のジェンダーの感覚はそれゆえ「本物でない」と言っているのだと考えました。これは決して私の意図するところではありませんでした。私はジェンダーの現実が何でありうるかに関する私たちの感覚を広げようとしていました。しかし私は人々が何を感じているのか、身体の一次的な経験がいかに表明されるのか、そしてセックスのそのような側面が承認され、支持されることに対する全くの喫緊かつ正当な要請により注意を払う必要があったと思います。ジェンダーが流動的で、変更可能だと主張するつもりはありませんでした(私のジェンダーは間違いなくそうではありません)。私が言わんとしていたことはただ、私たちはみな、病理化、非現実化、ハラスメント、暴力の脅迫、暴力そして犯罪化なしに自らの生を定義し追求するより大きな自由を持つべきだ、ということです。私はそのような世界を実現するたたかいに参加しているのです。



原注(元記事ではリンクとして貼られている)
[1] http://www.cardinalnewmansociety.org/CatholicEducationDaily/DetailsPage/tabid/102/ArticleID/3152/Fordham-Hosts-%E2%80%98Gender-Theorist%E2%80%99-for-Prestigious-Annual-Lecture.aspx
[2] http://www.rapereliefshelter.bc.ca/sites/default/files/imce/Transgender%20Activism%20A%20Lesbian%20Feminist%20Perspective%20by%20Sheila%20Jeffreys%2C%20Journal%20of%20Lesbian%20Studies%201997%5B1%5D.pdf
[3] http://www.advocate.com/commentary/2013/10/02/op-ed-working-together-over-time
[4] http://www.hawaii.edu/PCSS/biblio/articles/2010to2014/2014-identical.html
[5] http://www.spectator.co.uk/features/9141292/dont-you-dare-tell-me-to-check-my-privilege/
[6] http://ia600504.us.archive.org/32/items/KT-IA-Wordpress/Sam-s-Story.pdf


訳注 [I] この引用文献の書誌情報は次の通り。Sheila Jeffreys, “Transgender Activism: A Lesbian Feminist Perspective,” Journal of Lesbian Studies, 1(3/4), 1997, 55-74.
[II] 「私が何十年か前に書いたもの」とは、次の記事を指す。Gloria Steinem, “If the Shoe Doesn’t Fit, Change the Foot,” Ms., February 1977, 76–86. この記事でスタイネムは、トランスセクシュアル女性が手術によって「自分自身を損傷させる」のは、家父長制による性役割の強制ゆえであり、フェミニストはトランスセクシュアリズムの興盛を警戒しなければならないと書いていた。
[III] この引用文中のインターセクショナリティの説明は不適切なものであることに注意。この引用文の元記事自体、極めてトランスフォビックで、(シス)女性がシスジェンダー特権を検証するよう求められることは不当であり、およそ自らの特権を検証するよう求めるインターセクショナリティという概念そのものが馬鹿げていると主張するものである。
[IV] 元記事にはリンクが貼られていないが、引用元のジャニス・レイモンドによる論考は以下より読むことができる。https://www.susans.org/wiki/Technology_on_the_Social_and_Ethical_Aspects_of_Transsexual_Surgery