昨年の2018年7月、お茶の水女子大学がトランスジェンダー女性の入学受け入れを発表したとき、ただちにツイッターで、トランスフォビックな仕方で懸念や怒りを表明するフェミニストがあらわれた。私はそのようなツイートを見て、非常に暗い気持ちになった。

 第一には、むき出しのトランスフォビアの言葉そのものが原因だ。だが、とりわけ私が暗い気持ちになったのは、次のようなことを考えたからだ――ついに、この手の言説が日本にもこの強度であらわれた、これからこの種のトランスフォビアと、正面切ってたたかわなければならなくなるのだろうか、と(※1)。

(※1 あくまでも私にはそう感じられた、ということであり、日本のフェミニズムの歴史やネット上のフェミニズムの言説に詳しい人は、日本にも以前からあったと言うかもしれない)

 私は英米圏のトランスジェンダー・スタディーズを研究する過程で、「女性だけのスペースからトランス女性を排除しなければならない」と言うフェミニストが1970年代からいること、そのようなフェミニズムのトランスフォビアは終わった問題では全くないことを知っていた。トランスジェンダーの運動や理論において、トランス排除の言説や実践に抵抗することが、重要な課題であり続けてきたことも。

 もっとも夏の時点では、女子大出身者が、やはりツイッターで「トランス女性を女子大に受け入れることで女性の安全が損なわれる」というような想定は非現実的だということを説明しているのを見て、私の不安はおさまった。お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏が記者会見で、学生の反応は非常に前向きで、学生・教職員ともに受け入れに反対の声はないと明言したことも、心強かった。女子大関係者のそのような主張は十分に説得的なものに、私には思えた。

 ところが、正しかったのは最初の直感の方だった。冬になって気がつくと、言説の内容は女子大の問題をはるかに超え、トイレをはじめあらゆる女性専用スペースからトランス女性を排除しなければならない、というものになっていた。しかも、そうした排除は、フェミニズムがフェミニズムである以上、当然の帰結だと主張されていた。トランス女性は〈男体持ち〉か、単に「男性」であるのだから、トランスの権利と(シス)女性の権利は決して両立しない。したがって「女性の権利」を守るフェミニズムは、トランス女性を排除する資格を持つ、というわけだ。

 このような議論は、いかにそれが有無を言わせない響きを持っていたとしても、誤りだといわなければならない。しかも、単に誤っているというだけではなく、トランス女性を内側からむしばみ、窒息させる破壊的な言説だ。こうした議論で常に、トランス男性の存在が抹消されていることも、見逃すことができない。トランス女性を〈ペニス持ち〉、〈男体持ち〉、もしくは単に「男性」と定義づけて排除することは、決して「事実」を確認しただけの中立的なものではない。またはジェンダーの規範や制度に批判的な態度であるともいえないし、フェミニズム的に意義ある指摘であるともいえない。このようなトランスフォビックな言明は、決して許容することができない。

 私たちは、過去から学ぶことができる。以下では、1970年代から存在するフェミニズムのトランス女性排除について、トランスジェンダーの運動/理論がいかにそれに対抗してきたかについて、特に理論的な観点から、描いてみたい。

 ただし一点、あらかじめお断りしておきたい。この記事は、現在進行形のトランス女性への排撃に対抗するという意図の下、限られた紙幅の中で書かれた。そのため、以下の記述はトランス女性に焦点を当て、トランス男性をめぐる論点については触れていない。これをフェミニズムとトランスの関係や、トランスジェンダー運動/理論についての包括的・普遍的な説明とは受け取らないでほしい。


歴史に学ぶ――フェミニズムによるトランス女性の排除

 1970年代のアメリカで、多くのフェミニストが、女性による女性だけのコミュニティの創設を目指した。男性を媒介しない、女性同士の結びつきに基づくコミュニティは、家父長制への抵抗の基盤となると考えられた。同様の考えで、フェミニストは女性のみによって構成された工場や会社を作った。女性をエンパワーメントするコミュニティを作るという理念そのものは正当なものだが、問題は、トランス女性にはこのコミュニティに入る資格がないとみなされていたことだ。

 それを象徴する三つの出来事があった。一つ目は、オリヴィア・レコードがトランス女性を雇用したことへの攻撃だ。オリヴィア・レコードは女性のみによって構成されたフェミニスト・レコード会社である。オリヴィアは70年代に、サンディ・ストーンというトランス女性をサウンドエンジニアとして雇っていた。このことがフェミニストの間で知られると、オリヴィアが「男性」を雇用しているとして、論争が巻き起こり、抗議の声がオリヴィアに殺到した。

 二つ目の出来事は、ミシガン女性音楽祭によるトランス女性の排除だ。この音楽祭は「女性のみ」のフェミニスト音楽祭で、1976年に初めて開催された。特筆すべきは、この音楽祭への参加は「女性に生まれた女性」に限るというポリシーが存在していたことだ。言うまでもなく、このポリシーはトランスを排除するものだ。1991年には、ナンシー・ブルクホルダーというトランス女性がミシガン女性音楽祭の会場から追い出されるという事件が起こった。

 三つ目の出来事は、ジャニス・レイモンドの『トランスセクシュアル帝国』の出版だ。1979年に出版されたこの本は、信じがたいほどトランスフォビックなことで悪名高い。今日に至るまで、この本とレイモンドの名前は、ある種のフェミニズムのトランスフォビアを象徴するものであり続けてきた。レイモンドによれば、トランス女性は女性であるかのように偽って女性の間に入り込み、女性を分断し、それによって、フェミニズムが守り育ててきた女性だけのコミュニティを破壊する。レイモンドはサンディ・ストーンを名指しで攻撃し、トランス女性(レイモンドの世界観では、男性)によるフェミニズムの侵略の実例として取り上げた。――なんだか、いまツイッターなどで目にしている言説と、妙に似ていないだろうか?


トランスジェンダー運動/理論の誕生

 1990年代初頭、英米圏のトランスジェンダー運動/理論は誕生した。トランスジェンダー運動/理論にとって、上で紹介した出来事に対抗することが、一つの重要な仕事となった。その起爆剤となった論文を書いたのが、まさにレイモンドのターゲットとなったサンディ・ストーンだ。この論文は「”帝国”の逆襲――ポスト・トランスセクシュアル宣言」というのだが、「”帝国”の逆襲」というタイトルはレイモンドの『トランスセクシュアル帝国』の意趣返しである(ちなみにこの論文は、パトリック・カリフィアほか『セックス・チェンジズ』(作品社、2005年)に収められていて、日本語で読むことができる)。 

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

著者:パトリック・カリフィア

作品社( 2005-07 )


 レイモンドの、そして今日のトランスフォビックなフェミニストの世界観では、男性とは生物学的な男性身体を持つ者のことであり、女性とは生物学的な女性身体を持つ者のことだ。そしてそのようなフェミニストは、自分たちが正しいと信じる基準に基づいて、トランスをジャッジする裁判官を自認している。ストーンは、トランスがフェミニズムや医学からジャッジされる側から、自分自身を自ら語る側になろう、と呼びかける。そして自ら語りはじめることで、「女性を分断する」と非難されてきたトランスは、むしろそのようなフェミニズムの硬直したジェンダー二元論を解体し、再構成する力を活性化させる。それによって、本質主義的な女性や男性の定義の下では存在を認められなかったような、新しいトランスの生の可能性を切り開いていくのだと、ストーンは主張した。

 ミシガン女性音楽祭におけるトランス女性の排除への抗議もまた、90年代のトランスジェンダー運動における重要な出来事となった。91年にブルクホルダーが追い出されると、翌年には、トランス女性の排除に抗議する人々の一団があらわれた。94年には会場の外で「キャンプ・トランス」という抗議集会が組織されるようになる。「キャンプ・トランス」には、リキ・ウィルチンズ、レスリー・ファインバーグといった当時を代表するトランスアクティヴィストが参加し、トランス排除に反対するフェミニストたちも、これに加勢した。横断幕にはこう書かれた。「人間に生まれた人間のために」。

 同じく90年代初頭に誕生したクィア理論も、トランスジェンダー運動/理論に大きな影響を与えた。クィア理論は、トランスフォビアの原因ともなっているようなそれまでのフェミニズムの前提を洗いなおした。トランスの文脈に引きつけながら、三つに分けて紹介しよう。

 第一に、フェミニズムが依って立つことができるような、女性が被る「共通の抑圧」の経験が存在し、フェミニズムを担う「女性」とはその「共通の抑圧」を経験している人のことだ、という想定を批判したこと(※2)。トランス女性はシス女性とは、人により程度の差はあれ、異なった個人の歴史を持つ。「共通の抑圧」の想定の下では、トランス女性はフェミニズムを担う「女性」には入らなくなってしまう。

(※2 このような「共通の抑圧」の想定を批判したのはクィア理論が最初ではない。ブラック・フェミニズムやポストコロニアル・フェミニズムは、80年代にはすでに、それぞれの関心において同様の批判を提起していた)

 第二に、ジェンダーが社会的なものであっても、身体の生物学的な性(セックス)は社会的な意味づけ以前の単純な解剖学的事実である、という想定を批判した。そのような想定は、トランス女性は手術をしようが何をしようが、男性身体の持ち主であり、「男は男だ」という見解を招き入れる。しかし、「生物学的な性」という概念自体が社会的に作られたものであり、性の生物学的な側面とされているものが人間にとって何を意味しているのかは、つねに言語的な秩序の中で、認識され、理解される。だからこそ、トランスの身体変容もまたこの社会的世界において、有意味な実践として成立するのだ。

 第三に、トランス女性が女性性や女性としての身体を獲得することは、「本物の女性」の女性性や女性身体を「我がもの」とする女性蔑視の実践だという想定への批判だ。しかし、ジェンダーの本質主義を真に批判するなら、ジェンダーに本物も偽物もないと言わなければならないのではないか?(※3)

(※3 このことは、ジェンダーとは人工物であり、ゆえにすべて偽物である、という主張と同じではない。そのような主張は、それゆえ単純にジェンダーは廃絶できるし、すべきである、という主張を経由して、トランスがトランスすることそのものの否定へと滑っていく。しかもその否定が、ジェンダーに対する批判的な態度だと標榜されていく)

 このような批判は、フェミニズムが依拠する「女性」のカテゴリーを排他的なものとしてしまうような、ジェンダーの二元論を批判するものだ。クィア理論や、クィア理論に影響を受けたトランスジェンダー運動/理論は、異性愛/同性愛、男性/女性といった二元論を根底から批判し、トランス的な身体や実践を、二元論を越境し、規範を撹乱するものとして、高く評価した。そのような主張は、普通の女性や男性として社会に同化して生きるという、伝統的なトランスのあり方とは異なったジェンダーの可能性を切り開くとともに、性別移行を統制する医学や精神医学の制度への抵抗を企図したものであった。

 だが、同時に、そのようなクィアな攪乱の主張は意図せずしてレイモンド的な見解に近づいてしまうことがあることに、注意しなければならない。女性や男性への同化を拒否することや、手術やホルモンのような治療を拒否すること「こそ」が政治的に望ましい生き方であると考え、そのような政治的姿勢に同調しないトランスを医学や社会の操り人形のように考えるなら、結局、男性や女性としての平穏で安全な日常や、自分が安心して生きることのできる身体やジェンダーを望むトランスの人々の生を、否定することになる。

 こうした認識の下、特に身体違和の経験や、身体を変えることを重視するトランスの人々は、トランスの実践の政治的価値をジェンダーの越境や攪乱という観点からのみ捉えるようなクィアなトランスジェンダーの言説に対して異議申し立てをしてきた。この異議申し立てが正当であるのは、一つにはこのようなトランスジェンダー/クィアの政治が、レイモンドやその他のトランスフォビックなフェミニストが述べ立てているような、男性性や女性性を身体化するトランスの実践は暴力的なジェンダー規範を強化するので間違っている、という主張と響きあってしまうからだ。

 そのような「規範の強化」を全面的に非難する主張は、人間をジェンダーの規範や制度の全くの犠牲者とみなす。そこではジェンダーの廃絶が唯一取りうる選択肢となる。しかし私たちは、一面で規範を引き受けながら、同時に規範に逆らい、それによって、わたしの生存が可能となるような条件を積極的に模索することができる。二元論への挑戦や規範の攪乱もまた、それ自体として重要だというより、それを通じてこれまで存在を認められず、生存不可能となっていたようなトランスの生を擁護しうる現実を切り開こうとするという点で、重要なものである。トランスジェンダー理論にとって最も重要な目標は、あらゆるトランスの生を擁護しうる諸条件を作り出し、実現することだと、私は考える。


トランスフェミニズム

 ここまで私は、フェミニズムの歴史的なトランスフォビアについて、トランスジェンダー運動/理論がそれにどのように対抗してきたかについて、描いてきた。それでは、フェミニズムとトランスの間に存在してきた緊張関係は、フェミニズムとトランスの運動、女性の権利とトランスの権利が両立しないことを意味するのだろうか? 決してそうではない。

 トランスジェンダー運動/理論とクィア理論はともに、フェミニズムへの批判の中からうまれた。だがそれは、新しい運動や理論が古いフェミニズムを捨て去るということでは全くない。フェミニズム、クィアそしてトランスは、現在進行形で、時に重なり合い、時に衝突しながらも、それぞれ独自の問題系を追究してきた。そのような生産的な緊張関係は、トランスの生を肯定するフェミニズムの流れをも生み出してきた。その一つを「トランスフェミニズム」と呼ぶ。

 男性/女性というジェンダーのヒエラルキーを本質化し、絶対視するようなフェミニズムの問題点は、女性や男性といったカテゴリーをそれぞれ貫く他のあらゆる種類の社会的なヒエラルキーについて、適切に考えられないことだ。人種、階級、民族、セクシュアリティや健常性などをめぐる力学が、ジェンダーの権力関係においていかに機能しているかについて考えることは、今日のフェミニズムが女性の抑圧を問題化するうえで、きわめて重要なものとみなされている。

 そして、トランスフェミニズムは、男性/女性というジェンダーのヒエラルキーにおいて、シス/トランスというもう一つのヒエラルキーが、いかに交錯して、トランスに対する差別や偏見を生み出しているかについて考えるよう、私たちに求める。例えば、女性性をジャッジすることには反対するはずのフェミニストが、なぜトランス女性の女性性をジャッジするのか。トランスフェミニズムの考え方によれば、そのようなフェミニストが、セクシズムには反対しながら、シスセクシズムという、セクシズムと関連するもう一つの差別的な思考へと陥ってしまっているからだ。シスセクシズムとは、ジュリア・セラノによれば、「トランスの人々の性自認や性表現を、シスの人々のそれよりも正当でないものとみなすセクシズム」である(※4)。

(※4 Julia Serano, Excluded: Making Feminist and Queer Movements More Inclusive (Seal Press, 2013), Kindle ed., No. 703.)

Excluded: Making Feminist and Queer Movements More Inclusive

著者:Julia Serano

Seal Press( 2013-10-01 )


 このようにシス/トランスのヒエラルキーについて考えることは、両者の差異を絶対化したり、「シス女性のフェミニズム」に対してトランスフェミニズムを対置したりすることとは全く異なる。こうした様々な力学の交錯について考えることは、フェミニズムがあらゆる女性に対する差別や暴力について正しく理解し、対抗するために、そしてあらゆる差別や暴力に対して抵抗していくために、必要なことなのだ。



キャンプ・トランスの映像資料

 最後に、記事中で紹介した「キャンプ・トランス」のドキュメンタリー映像を紹介したい。この映像は、リーン・アーンスト監督の作品”We’ve Been Around”の一部である。

 この映像で、レスリー・ファインバーグは女性たちの前で次のように発言している。「トランス女性が女性の空間に迎え入れられたいと思うのは、あらゆる女性たちと全く同じ理由のためだ。安全だと感じるためだ。」


      この動画は、Normal Screen(@NormalScreen)さんのツイートで紹介されていたものである。


本論考は、以下のサイトに初出されたものです。 https://wezz-y.com/archives/63653
WANよみもの編集局では、フェミニズムの議論のアーカイブとして残していくため、元のサイトに許可をいただき、転載しております。