「この星は、私の星じゃない」 C2019パンドラ+BEARSVILLE

 「田中美津がいて、よかった」との思いで、4年をかけて田中美津を追ったドキュメンタリー映画『この星は、私の星じゃない』(吉峯美和監督・配給パンドラ)を見に、2月2日、京都みなみ会館へ出かけた。

 去年の夏、リニューアルされたみなみ会館の運営会社である巌本金属工業は、今年、アカデミー賞を受賞した韓国映画「パラサイト」を応援している。去年5月、美津さんを京都に迎えて、映画づくりのクラウドファンディングに、ささやかだけど私も協力した。

        東寺ガラクタ市


 開演にはまだ時間があるので、近くの東寺までゆく。いいお日和のなか、「日曜ガラクタ市」に、古い器や人形、珍しい逸品が広い境内いっぱいに並んでいた。

 そのもう少し先に、4年前の4月、男友だちがホームセンターで倒れて救急搬送された京都九条病院がある。入院中、ひと月ほど毎日見舞いに通っていたから、歩き慣れた道だ。その後、後遺症もなく元気になった彼は、この冬もまた北海道大雪山系トムラウシ(カムイミンタラ・神々の遊ぶ庭)へ、1カ月の長い湯治に行っている。

 上野千鶴子さんのメッセージ。「日本のリブが、輸入品でも借り物でもない、田中美津という肉声を持ったことは、歴史の幸運だったと思う。闘うのは、勇気があるからではない。いても立ってもいられないからだ。一生懸命だからだ。懸命に生きて、懸命に老いれば、こんなに自由でいられることを、田中美津は、いながらにして示してくれる」。

 あれから、もう50年。衝撃の「便所からの解放」を書き、「ぐるーぷ闘う女」やリブ新宿センターで日本のウーマン・リブを率いて闘った田中美津の当時の姿が、松本路子の写真や映像を通して描き出される。1975年、国際婦人年を期にメキシコに渡り、未婚の母となって4年後に帰国。それからは鍼灸師として「れらはるせ」を開業、現在に至る。今は沖縄にたびたび通い、辺野古での座り込み、沖縄の東方、久高島に渡って「ニライカナイ」(神々の住む国)の海を、はるかに眺めるシーンは、まるで、あの世とこの世をつなぐ巫女のようだ。

 「モナリザ・スプレー事件」の米津知子さんと美津さんの対話がいい。京都で、82優生保護法改悪阻止を闘っていた頃、「SOSHIREN女(わたし)のからだから」を発行する米津さんをお呼びしてお話を伺ったことが、今も懐かしい。

 1974年4月20日、上野の東京国立博物館で開かれたモナリザ展。その入場券には「相当の混雑が予想されるため、乳幼児連れの方、観覧に付添いを必要とされる方の入場をお断りします」とあった。3歳の時のポリオの後遺症で障害をもつ米津さんは、この日、モナリザ画に向けてガラスに赤いスプレーペンキを吹きつけ、障害者差別に抗議した「モナリザ・スプレー事件」の被告とされた。逮捕後、18日間の拘束、軽犯罪法(31条業務妨害)で起訴。控訴審判決は科料3000円だった。

「東京こむうむ」のビラには、こう書かれている。「1973年11月、国鉄にベビーカー乗り入れ禁止反対を訴える。1974年4月、子連れ、障害者を排除したモナリザ展に抗議。5月、デパートのベビーカー使用禁止に怒り、消防庁と団交。7月、デパート協会、消防庁と団交を重ね、ベビーカー復活を勝ち取る」と。なんか今もまだ、変わらない風景があるのではないかと思うこともある。


 これらのビラは、『資料日本ウーマン・リブ史Ⅱ』(編者・溝口明代・佐伯洋子・三木草子/松香堂、1994年1月25日発行)に載っている。私もその編集にかかわって、ビラの一枚、一枚をワクワクする思いで校正したことを思い出す。今はWANのミニコミアーカイブで全部、ネットで読めるのが、何よりうれしい。

 「ことば」が人に届くということ。それは女の「ことば」が、「語り口」だからではないか。『源氏物語』の昔から、女は自らの語り口で伝えてきたのではないかと思う。そこには美津さんの言う「かけがえのない自分」と「たまたまの私」との間を揺れ動きながら「ありのままに自分を生きる」田中美津の姿が、いつもあった、76歳の今も、なお。

 「からだに聴いて、心を癒す」「心とからだは二つにひとつ」。東洋医学では「七情の乱れ」というそうだ。七情とは「喜、怒、憂、思、悲、恐、驚」。気持ちが乱れると内臓がおかしくなり、内臓がおかしくなると気持ちがおかしくなる。鍼を打ちながら「私の中にその人の居場所があるし、その人の中にも私の居場所がある」という関係、そんな他者とのかかわりをもてたら、ほんとにいいなあ。

 
リブとフェミニズムはつながっているのか。

 『かけがえのない、大したことのない私』の5章、シンポジウム「<リブという革命>がひらいたもの」(田中美津・秋山洋子・千田有紀、司会/加納実紀代、2004年3月26日)。その中で1968年生まれの一番若い千田有紀さんは、リブの資料やフィルムを見て、「現在の私たちが、当時のリブを知ることがいかに困難かということを思い知りました」という。1970年、「ウルフの会」を立ち上げた秋山洋子さんは、『リブ私史ノート』(秋山洋子編・インパクト出版会)の中で「美津さんのことを『妙に間違えない人』と表現した」と語っていた。秋山洋子さんも加納実紀代さんも、今はもう、いらっしゃらないことが、なんとも悲しい。


 そして田中美津の最新刊『明日は生きてないかもしれない・・・という自由』(インパクト出版会・2019年11月10日)の中で、「リブは普通の女たちが自分の生き難さを何とか変えたいと始めた運動だった。少人数で集まって話し合うことから始まった、いわば70年代に行なった「♯Me Too」運動だったわけね」と語る。私もまた、遅れてリブに出会い、自ら望んで「川へ洗濯にいってしまう女」という役割を、やっと脱ぎ捨てることができた。そう、リブは今もなお、女たちの中に生きているんだ。

 この本の最後の章「小熊英二『1968』(新曜社)を嗤う」、これがまた、ほんとに痛快なのだ。『週刊金曜日』(2009年12月25日)に前述されたものだが、当時、田中美津・66歳。本人を一度も取材することなく、資料を切り貼りしただけの『1968』の最終章「リブと田中美津論」を読んで、当人もびっくり。「文献資料に忍び込む間違い」「誤読、誤用、捏造に驚いて」など、一つひとつ、的確に反論していく。

 小熊の「田中は、『大義』や社会運動よりも『私』の欲望を優先させることで、大衆消費社会への触媒役となった」という妄想論的結論に「『いい加減にしてよっ!』の一言あるのみだ」と書く。

 ああ、スッキリした。江戸っ子の美津さんの、小気味いい啖呵に胸がすく思いがする。

 美津さんと同い年の私。ずいぶん遅れてリブに出会ったけれど、リブは老いも若きも関係ない。生きている限り、リブは続いてゆくよ。

 今年5月16日、東京でWANの総会の後、田中美津さん他の方々をお呼びして、シンポジウム「フェミニズムが変えたこと、変えられなかったこと、そしてこれから変えることへ」を開く。あの歯切れのいい、心の奥にまで届く彼女の「ことば」を、また聴けると思うと、今からもう、その日が待ち遠しい。