女であるだけで (新しいマヤの文学)

著者:ソル・ケー・モオ

国書刊行会( 2020-02-29 )

昨今韓国フェミニズムと文学が大きな盛り上がりを見せておりますが、じつは現代ラテンアメリカ文学の中にも、高い普遍性と物語性を備えたフェミニズム小説が存在します。

その中の1冊として、このたび吉田栄人氏(東北大学大学院 国際文化研究科准教授)による翻訳で、国書刊行会よりソル・ケー・モオ『女であるだけで』を刊行しました。

作者のソル・ケー・モオは、2008年に『テヤ、女の気持ち』でデビューし、初めてのマヤ先住民女性作家として脚光を浴び、本作『女であるだけで』ではメキシコ先住民文学の登竜門であるネサワルコヨトル賞を受賞。2019年には南米最大のブックフェアで南北アメリカ先住民文学賞を受賞し、国際的に注目されている作家です。

物語は、マヤのツォツィル族先住民女性のオノリーナが、日常的に暴力をふるう夫フロレンシオを殺害したかどで有罪判決を受け、やがて、弁護士や多くの人々の支援により恩赦を受けるまでの過程を描きます。 オノリーナの回想と法廷での答弁を織り交ぜた巧みな構成、物語の高いリアリティと強度を担保する確かな筆致から徐々に浮かび上がるのは、オノリーナが14歳で家族に売られ始まった夫との貧しい生活、夫からの絶え間ない暴力、先住民差別と女性差別……そして夫をついに「殺す」に至るまでに味わう、おそろしく理不尽な困難の数々です。

本書のテーマを一言で表すと「社会的正義」です。オノリーナとフロレンシオの関係は、メキシコの典型的な男性中心主義が生んだ状況、すなわち構造的暴力として作中に立ち現れます。ですがそれは、あくまで告発し根絶すべき対象として、広く夫さえ含めた制度的な犠牲者として、俯瞰的に描かれたものです。 バランス感覚に優れた今日的で普遍的なまなざしで、絶望的な状況の中でありながらも「女の連帯」により芽吹く希望があることを描き切った、ラテンアメリカ・フェミニズム小説の最高傑作です。

そしてこのたび、WANの代表である上野千鶴子氏から、本書『女であるだけで』にむけたご推薦文をいただきましたので、全文を掲載いたします。
=== 「女であるだけで」味わう絶望と希望 上野千鶴子(社会学者)
女の人生はどこでも似たようなものだ。殴られ、蹴られ、牛馬のようにこきつかわれる。
女が男を殺すと「毒婦」と言われるが、女が男を殺すときにはきっとそれだけの理由がある。夫殺しの女は、中南米にも、アジアにも、アメリカにも、日本にもいる。多くの女は、夫を殺さずにすんでいるだけだ。
ソル・ケー・モオの描く女は、土着の、最底辺の女だ。インディオで、しかも女。存在する価値がないと思われている。監獄のなかで初めてことばを学ぶ。法が彼女を裁こうとするとき、彼女からことばがほとばしる。「あんたたちの罪は、あたしたちの存在をずっと忘れていたことなんだ」。法は自分を守ってくれなかった。罪があるのはどちらなのか、と。
彼女を救おうと、さまざまな女たちが手をさしのべる。「女であるだけで」階級、人種、立場の違う女たちが似たような経験をする。そして「女であるだけで」連帯にはじゅうぶんな理由がある。実際にはこんな階級、人種、立場の違う女たちの連帯は、やすやすとは成り立たないかもしれない。だがその「女の連帯」を描くところに、作者の希望がある。
中南米文学を、地球の反対側の遠い世界の作り話だと思わないでほしい。足下の現実を掘り続けると、普遍に達する。もっと掘り抜いていけば、地球の裏側にも達するのだから。
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本書『女であるだけで』は、約80万人のマヤ先住民族によって話されるユカタン・マヤ語で書かれた、21世紀のラテンアメリカ文学の代表的作品を紹介する画期的な新シリーズ「新しいマヤの文学」の第1回配本です。
シリーズの詳細は以下からご覧になれます。
▼▼▼ https://www.kokusho.co.jp/special/2020/01/post-12.html
(国書刊行会 〈新しいマヤの文学〉シリーズ特集ページ)