離婚後の子どもをどう守るか

著者:梶村太市/長谷川京子

日本評論社( 2020年03月12日 )


こういうドグマがある。「離婚により父母の一方(多くは父親)を失うことで子どもは大きな心の痛手を受ける。その傷を癒し、子が健全に育つためには、非監護親(多くは父親)との面会交流を通じて、父母の双方から愛されていることを知ることが不可欠だ。監護親(多くは母親)はしばしば離婚に至る恨みから父親を子どもから遠ざけようとし(片親疎外)、そのような母親の心情は子どもに伝わり子どもも父親との面会を拒絶することがあるが、それは子どもの本心ではない。だから、子どもが面会を望めばもちろんその子の本心として尊重するが、子どもが拒絶したからといって真に受けるべきではない。非監護親が子どもに関わりたいというのは子どものために良いことで、非監護親が子どもとの面会を求めるなら最大限実現するべきである。」

このようなドグマのもと、家庭裁判所は「面会交流原則実施政策」を推進している。この政策も、他方親への断りなしの子連れ別居を防止せよという「親子断絶防止法案」の設計思想も、子育てを担ってきた親(監護親)が望んで別居し離婚を遂げたのちも、子育てしなくても「親は親」、監護する親と同等の親権をよこせという「離婚後共同親権導入論」も、いずれも、「ふた親のそろわない子は不幸、健全に育たない」との偏見をよりどころに、別離を望む当事者に「父母」としての密接な関係を続けるよう要求している。そうやって、家族法が、傷つきやすい子どもを口実に、「離婚」による関係解消を無効にし、失敗した「結婚」に結びつけようとすることを、支持できるだろうか。

 離婚後共同親権(監護)法制というのは、「先進」諸外国で、女性からの離婚に「自分たちの権利を侵害された」と怒った男たちが「父権回復運動」を立ち上げ、その中で、母親に養育権を与える家庭裁判所を「父親差別」、単独親権(監護)制度を父子関係断絶の元凶と非難して法改正を要求し、1980年以降に米国や欧州で導入されてきたものである。育てなくても親権(監護)を持つのが「平等」か? 拒絶しても接触させられるのが「子どもの最善の利益」なのか? これらの吟味もないまま、「離婚後共同」は広まっている。

 この問題を本書の編著者たちは子どもの視点で論じてきた。『離婚後の子の監護と面会交流―子どもの心身の健康な発達のために』(2018年)は、家庭裁判所を席巻している原則的面会交流実施政策の前提を科学的・理論的に検証した。『離婚後の共同親権とは何か―子どもの視点から考える』(2019年)は、離婚後共同親権導入論に立法事実がないことを明らかにするとともに、その実現が子どもとその養育、司法の役割に及ぼす影響、とりわけ子どもを危険にさらしてきた先進国の経験を私たちの社会のジェンダーバイアスとともに検証した。そして、「離婚後の子どもをどう守るか―『子どもの利益』と『親の利益』」(2020年)では、「共同親権でwin-win」「虐待防止に役立つ」などの父権論者たちの宣伝文句の不実をあばき、家庭裁判所で面会交流を強要された当事者の体験を紹介したうえ、そうした子どもたちの支援者・研究者と、法律家たちの論稿を寄せた。ここでは、子どもが誕生とともにどれほどの認知や記憶力を持ち、頼りにする大人との間で活発な精神活動を行っているのか、そういう子どもの力を見据えて「子どもの最善の価値」はどう捉えるべきか、そこに「親の利益」を挿げ替えてはいないか、「子どもの利益」に応える養育監護はどういうものか、それを保障する監護法はどうあるべきか、などについて、さまざまな角度から掘り下げた。

子どもは、さまざまな事情にありながら、信頼できる誰かに安全と充足を頼りつつ力をつけて成長していく。そういう成長を遂げられることこそ「子どもの利益」であるけれど、それは、「揺りかご」にあたる監護親(その多くは母親)による養育ケアなしには始まらない。だとすれば、監護法制はよい養育を受けるべき子どもとその担い手の視点でこそ議論していくべきである。ところが、母親の養育ケアが従来シャドウワークとされてきたため、そこで守られる子どもの利益もともに「シャドウ(陰)」領域に押し込まれ軽視されてきた。このことが、監護法制の議論において、表層的な「形式平等」論に付け入られて養育ケアの自律性が制限されたり、「子どもの利益」の中身について「養育しない親の利益」への挿げ替えを許してしまった原因かもしれない。「形式平等」に目を奪われず、リアルな不公正を見据えることから、子どもの利益を考えることも始まる。

(編者 長谷川京子)