5年前に出版された、池田浩士著『ヴァイマル憲法とヒトラー 戦後民主主義からファシズムへ』(岩波書店、2015年6月18日)を再読し、著者は「今を予見していたのかもしれない」と思った。いや、すでに「あの時代が始まりつつある」と、読み進むうちに背筋がゾクッとする思いがした。

 本書の略年表Ⅰ、Ⅱ、Ⅲから拾ってみる。
1914年7月 第一次世界大戦始まる
1916年1月 スパルタクス・ブント結成
1917年11月 ロシア革命、ソヴィエト政権発足
1919年1月 ローザ・ルクセンブルク、カール・ループクネヒト虐殺
8月、「ヴァイマル憲法」施行。9月、ヒトラー「ドイツ労働党」入党
1920年1月 「国際連盟」発足
1921年7月 ヒトラー、ナチ党首となる
1922年10月 イタリア・ムッソリーニ政権樹立
1923年9月 関東大震災
1929年10月 ニューヨーク株価大暴落、世界恐慌へ
1930年9月 ドイツ国会選挙、ナチ党第二党に躍進
1931年9月 日本、中国東北部で開戦、「満州事変」
1932年7月 ドイツ国会選挙、ナチ党第一党となる
1933年1月 ヒトラー内閣発足。3月、「全権委任法」強行採決。翌日公布・施行
1937年7月 日本対中国全面侵略戦争へ。「支那事変」
1939年9月 ドイツ、ポーランドへ侵攻。第二次世界大戦始まる
1941年12月 日本、対米英開戦。「大東亜戦争」
1945年4月 ヒトラー自殺。8月、日本天皇、「終戦の詔書」発表

 ほぼ100年前の出来事。戦争と革命政権樹立。左翼への弾圧とファシズムの台頭。世界恐慌と他国への侵略。「20世紀は戦争の世紀」とされたが、21世紀もまた戦争への道を進むのか?

 1929年の世界恐慌後、1932年、ナチ党は第一党となり、1933年、ヒトラー内閣発足後すぐ、「全権委任法」を強行採決、公布・施行。その後、ファシズム政権は戦争への道を突き進んでゆく、しかも合法的に。

 この動きについて池田浩士は、『ヒトラーに投票した有権者たち』を書いた1944年生まれの政治学者、ユルゲン・W・ファルターのデータを繙き、どの階層がヒトラー政権を支えたかを明らかにしていく。

  1928年のドイツの完全失業率は9.7%。1929年秋の世界恐慌とともに失業率は鰻上りに増大し、1932年2月には44.4%に達する。国会議員選挙を「失業率」と「ナチ党の投票率」のグラフで見ると、確かにパーセントでは一見、両者は相関関係があるかに見える。だが、「失業者数」と「ナチ党の投票数」を比較すると、「失業者数上昇のカーブより、ナチ党の得票数増大のカーブが、はるかに急角度となり、両者に相関関係があるとはいえない。失業者自身が、ナチ党支持に転じたわけではない」ことがわかる。

 では誰がナチ党支持に転じたのか。ファルターは、①これまで投票にいかなかった「無党派層」が、ナチ党に票を投じた。②ナチ党と近い右翼政党が票を減らした分を、ナチ党が獲得した。③失業者が多い地域では、ナチ党は得票を伸ばしていない。④ナチ党が票を伸ばした地域は、失業率が低い。結果、ファルターは、ナチ党に投票したのは自営業(農業、商業、手工業の職人)の階層と見て、「今まさに失業者として飢えている工業プロレタリアートではなく、さしあたり今は失業から免れていたにせよ、その後、同じ道をたどるであろう中間層、自営農民がナチ党に票を投じたのだ」と指摘する。

 ファルターの論をさらに進めて、池田浩士は、ナチスを支持するようになった人々の心情を「迫りくるものへの不安や危機感」「今にも受けるであろう打撃や損失についての危惧と焦燥」と分析し、「ナチズムは、人々の予感的、予防的な危機感を、いわば未然に吸収し、組織したのではないか」と喝破する。

 うん、そうかもしれない。ファシズムへの道を拓くのは、増大する失業者層ではなく、「持つ」者が、たとえそれがわずかであったとしても、それを奪われるかもしれないという、一般大衆の、ごく普通の不安な心理に依拠するのではないかと、一瞬、ヒヤリとする思いが背筋を走る。

 もう一冊、池田浩士著『ボランティアとファシズム 自発性と社会貢献の近現代史』(人文書院、2019年)を読む。これは、「日の丸・君が代」強制反対・不起立処分を撤回させる大阪ネットワーク・グループZAZAの連続講座「ファシズムとボランティア~自発性から総動員へ」をまとめたもの。

 1923年9月の関東大震災の2カ月前、南洋に出航していた東大学生南洋見学団は、帰国後すぐ、震災の救護活動に向かう。数年後、「東京帝国大学セツルメント」を結成。メンバーには内村治志、志賀義雄、磯村英一、清水幾太郎、武田麟太郎、我妻栄、戒能通孝、声楽家の関鑑子らがいた。その15年後の1938年2月、「東大セツルメント」は強制解散を命じられる。同4月、「国家総動員法」公布のもと、日本とドイツは一気に戦争へと向かう。ドイツは「労働奉仕」、日本は「勤労奉仕」と称して、ボランティア活動が戦争翼賛への道を突き進んでゆく。ドイツの「自発的」労働奉仕の成果の一つが「アウトバーン」工事への動員であったことは、今もよく知られている。

 世界恐慌後、日本の生糸産業や農村は大不況に見舞われた。1931年8月、北九州若松の石炭積み出し港で仕事を奪われた沖仲仕たちが、三菱鉱業を相手にストライキを決起。リーダーは後に作家となる、当時、沖仲仕「玉井組」組頭の火野葦平だった。意外にも、三菱鉱業は沖仲仕に失業手当を潤沢に出し、ストライキは妥結。その裏には何があったか。直後の9月18日、「満州事変」勃発。「石炭を筑豊から出荷できなければ日本は戦争を遂行できない」と判断した会社側が、あえて要求を呑んだのだ。軍需会社・三菱鉱業は事前に「満州事変」の計画を知っていた。その後、敗戦まで14年間、中国東北部「満州」へ、日本各地から「農民移民」が続々と入植していくことになる。

 そしてもう一つの逸話。ストライキの支援にかけつけた労働組合全国協議会(全協)オルグ・中村勉は、火野葦平の妹と恋仲となり、結婚。二人の間に生まれたのが、先頃、アフガニスタンで銃撃され、亡くなった中村哲だったことを、この本で知る。1983年、「ペシャワール会」の立ち上げに京都YWCAを訪れた中村哲さんの、あの訥々としたお話と声を、ふと思い出した。

 「新型コロナウイルス」パンデミックで4月7日、安倍首相は遂に「緊急事態宣言」を発令した。そのあとに来るものは?

 3月30日、ハンガリーのオルバン政権は、コロナに乗じて「非常事態宣言」の無期限延長を決定した。EU加盟13カ国は共同声明で「(新型ウイルスの)緊急対策が法の支配、民主主義、基本的権利を侵害するリスクを深く懸念する」と表明。オルバン政権への名指しは避けつつも、EU「法の支配」担当・ヨウロバー副委員長は、「今はコロナウイルスを抑えるとき。民主主義を殺すときではない」と語った(毎日新聞4月6日付)。

 新型コロナウイルスを奇貨として、日本を含めて各国が、強権発動の動きを加速していくのではないかと、心配。

 ため息をつきたくもなる毎日。新学期、またもや休校となった小学生の孫娘は、お天気がよい日は比叡山や大文字山へかけ登り、御所や賀茂川を走り回る。いい空気をいっぱい吸ってウイルスを吹き飛ばそうと。

 今は、なによりも家族みんなで、よく眠り、よく食べて、元気でいたいと願うばかり。