京都寺町二条の三月書房が、近く店を閉じるという。「コロナ自粛」のある日、御所への散歩の帰り道、ふらっと立ち寄る。店主の宍戸さんに聞いてみる。「これからは週休7日ですか?」「ええ、毎日が定休日です」と答えが返ってきた。

 買い求めた数冊の中から手にとったのは、米本浩二著『評伝 石牟礼道子 渚に立つひと』(新潮社 2017年3月)と、阿部謹也著『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』(ちくま文庫 1988年12月)の2冊。

 予期せぬできごとや原因不明の災い、解けない謎と出会った時、人々は、暗い情念や、ありもしない妄想に陥る。そしてそこから差別が生まれる。60数年前の水俣病発症と、13世紀の中世、ハーメルンの笛吹き男が130名の子どもたちを連れ去ったという伝説も、どこか「いまの時代」につながる伏線となる歴史だったのではないかと、息をのみ、息もつかせず、2冊の本を読み進む。しかも阿部謹也の本の解説を、なんと石牟礼道子が書いているのだ。

 元毎日新聞記者の米本浩二は、2014年から数年かけて石牟礼道子のもとへ何度も通い、彼女の評伝をまとめて、2017年3月に出版。2018年1月、読売文学賞評論・伝記賞を受賞。そのひと月後に石牟礼道子は90歳で亡くなる。真摯に石牟礼道子と向き合い、丹念に資料を集めて書いた評伝は、まるで石牟礼道子の魂が、彼に書かせたのではないかと思うくらいに、ありありと、その姿が立ち現れてくる。それほどに魅力のある人だったんだなと思う。

 「魂への呼びかけが聞こえたとき、その場へ身も心も移動させてしまう。石牟礼さんは高漂浪(され)き。本物の高漂浪きです」と話すのは女性史家の河野信子。女性交流誌『無名通信』を森崎和江らとつくり、ともに「サークル村」の会員だった。

 「もともと彼女自身にこの世とはどうしてもそり反ってしまうような苦しみがあって、その苦しみと患者の苦患がおなじ色合い、おなじ音色となってとも鳴りするところに『苦海浄土』は成り立った」と、石牟礼道子の後半生の伴走者である渡辺京二は書く。

 「渚に立つ人」と称される道子は、あの世とこの世の境である渚、不知火の海に立っていたのだろうか。

 1964年、高群逸枝の本を読み、道子は手紙を書く。高群逸枝はそれを読み、ふた月後に亡くなるのだが、その後、高群と共に住んだ橋本憲三に誘われて、道子は東京世田谷の「森の家」に滞在する。「サークル村」を率いる谷川雁らの文体とは異なる、「いまだ発せられたことのない女の言葉でもってこれにこたえられないものか」との望みをもち、道子は「森の家」で「海と空のあいだに」などの構想をあたためていく。

 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場付属病院の細川一院長が「原因不明の中枢神経疾患が発生している」と保健所に届け出る。水俣病の公式確認だ。1959年7月、熊大研究班が有機水銀説を公表。漁民たちの怒りはチッソに向かう。同年11月2日、漁民は工場へ乱入。胎児性患者を最初に見出した原田正純医師は言う。「水俣病は病気じゃなかですもんね。公害の何のちいうて、あれは殺人だとぼくは思います」。

 『苦海浄土』の表題は、上野英信が「苦海」というと、道子の夫の弘が「それなら浄土」と続けて決まったという。 『苦海浄土 わが水俣病』を、渡辺京二は、「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」と言い、「『苦海浄土』は石牟礼道子の私小説である」と断言する。聞き書きやノンフィクションではないのだ。最初、岩波に出版を断られ、1969年、講談社から刊行される。翌年、第一回大宅壮一ノンフィクション賞に推されたが、「水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのが忍びない」と受賞を辞退したという。


 阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』の伝説は今も謎のままだ。1284年6月26日、ハーメルンの子どもたち130人がカルワリオのあたりで行方不明になったという。

 石牟礼道子は、その解説「泉のような明晰」で「阿部氏がゲッチンゲン市の州立文庫館で、「鼠捕り男」の伝説に関する文献に出会い「背筋を何か電気のように走るのを感じた」とかかれたところで、わたしにも、その作用が働いた。わたしたちはたぶん遠い昔から、この世の外に向かってひらいている耳目を持っていて、いつもははたらかぬそれに、かの笛の残韻がとび込んできたのだが、そのようなことをもたらす本書である」と書く。

 著者と読者が「感応する」とは、そういうことなのだと思う。

 笛吹き男が130人の子どもたちを連れ去ったのは歴史上の事実であったこと。その後、伝説と化した史実を克明に跡づけた研究史の内容は、「笛吹き男を地上に結像させる人心の作用と歴史の起伏を感じさせるが、そこふかく沈んでいる下層民の情念の浪がしらをみる思いでもある」と続く。

 阿部謹也は、この伝説を、ヴォルフガング・ヴァンの25のテーゼのよる解釈や、12、13世紀の「植民請負人」による東欧への「人口移動」説など多くの研究を史料で跡づけていく。1951年、ハインリッヒ・シュパヌートが「ハーメルンのネズミ捕り男-古伝説の成立と意味」の学位論文をゲッチンゲン大学に提出したのは彼が78歳のとき。学者ではなく、市井のひとであったシュパヌートのことを阿部は「ただひたすら伝説の世界に沈潜し、知を頼らず、愚者として伝説の変貌の必然性を体験したひと」として称賛する。

 「近代文明以前の人間感情の発露とはどのような表現をとっていたのかを知りたい」という阿部謹也の思いは、同じ中世史家の網野善彦にも通じる。

 30年以上前、同志社大学チャペル・アワーで網野善彦氏の講演をワクワクする思いで聴いたことがある。琵琶湖西岸・菅浦の「菅浦文書」に記された「湖賊」のこと。「海賊」と呼ばれた海の領主たちが、海上交通を用いて朝鮮半島や中国大陸まで広く交易のネットワークを形成していたこと。平清盛が村上水軍の力を得て、厳島から瀬戸内、淀川を経て琵琶湖へ入り、敦賀、若狭の日本海へと横断する海運を目論んでいたことも決して妄想ではない。さらに琵琶湖西岸に和邇、白髭神社、高島まで渡来人の古墳群が連なっていたことなど。

 そうなんだ、「海」が人々をつないでいくんだ。

 水俣病闘争のさなか、チッソ東京本社を患者たちが占拠した際、チッソ社員が道子を指して「お前が張本人だろう」と面罵したという。激しい闘争、やがて患者の杉本栄子さんは「チッソを許す。私たちを差別した人たちも許す」と言い、緒方正人さんは「患者は加害者を一人も殺していない」と語る。患者の「思い」を自らの「言葉」に重ねて「文字」に書き残したのが石牟礼道子だったのだ。

 新型コロナウイルス感染症のパンデミックが終わった後、世界地図はどのように変わるのだろうか。為政者の資質の差による地図の塗り替えもあるだろう。人と人とのかかわりも、また変化していく。これからの私たちは、いったい、どんな地図を描いていけばいいんだろうかと、ふーっと考える日々。