コロナ禍のための生活支援として、当初の非常に限定された条件付き給付が破棄され、一律一人当たり10万円の給付が決まった。とはいえその実施は遅くいつになったら10万が届くのかよくわからない。日本の行政の驚くほどの情弱ぶりも露呈し、マイナンバーで申請すると却って遅くなるからやめてくれという有様である。一律一人当たり10万と言いながら、世帯単位で世帯主に「受給権」があるという、さすがジェンダーギャップ指数121位の国である。ツッコミどころは満載であり、かつ1回10万を受け取っただけで生き延びることができるわけではないので、金額そのものも十分と言えるものではない。

 しかしながら、住民票のある人に一律10万という、それなりの金額の普遍主義的給付の実現は日本においては結構画期的ではないか。それに先駆けて、今回もう一つ印象深いのは学校一斉休校措置の補償からの風俗関係者排除という選別が撤回されたことである。例によって「貧困ゆえにやむを得ず風俗産業に従事する女性」という選別主義的論調も少なくはないのだが、同時に「同じように困っているのに差別するのは理不尽である」というシンプルな主張が意外に多く、伝統の選別主義が少し変化している印象がある。これは当事者団体の迅速な働きかけによる実現というプロセスの効果かもしれない。さらに広島県知事が、公務員の受け取る給付を差し出させてコロナ対策に充てると言い出したが、批判が続出してこの案は撤回された。公務員は恵まれた特権的立場であり給付は「不要な人」であるという前提で提案された公務員への給付の召し上げは世論に支持されはしなかったようである。この出来事も日本社会の選別主義の空気が少しばかり変化したことを示しているように思われるのである。

 日本で馴染みの選別主義給付が覆されたことは画期的な経験である。それでも、気の進まなさを隠さない政府自民党は言うに及ばず、「本当に必要のない人たちにまで支給するのは無駄である」という、普遍主義的給付に対する疑問や批判の言説は絶滅してはいない。執行の不手際に関する山積みの問題点はさておき、この「本当に必要な人」、そして「不要な人」について考えてみたいのである。この議論は救貧政策に始まり福祉・社会政策分野では歴史的に論じられてきたものであり、直近では民主党政権時のこども手当をめぐっても盛んに議論されたので、今さら感は否めないが、コロナ禍を機に多くの人々の感性が少しずつ変化している印象もあり、蒸し返してみたいのである。ただし、今回は政策論議ではなくイデオロギーとしての選別主義について、である。

   「本当に必要な人」はどのように「不要な人」から選別されるのか。その境界を「お上」が決めて線引きすることには、とりわけ境界の間際で対象から外れる層から不満が噴出する。選別主義はこの境界線上の強い不公平感を免れることはできない。このことは人々を分断・対立させ、対等な連帯を妨げる。これは民主主義国家の根幹に関わる問題である。それに対して境界線を引くことのない普遍主義は「市民の地位、便益および責任を平等化し、かつ政治的連合の構築を促進する」(Esping-Andersen ,1990=2001)という基本認識をあらためて確認したいのである。

 ところで「本当に必要かどうか」が個々人の自主的判断に任されるとしたらどうだろうか?「申請すれば給付する」と言い放った麻生財務相も、菅官房長官も、「自分は申請しない」と宣言した。自民党議員は党の指示により申請しないことになっているようである。普遍主義的一律給付なのだが、自発的に選別して辞退することが奨励されてもいるのである。「あなたに10万の支援は必要だろうか?」と問われれば、たとえ高額所得者でなくとも、自らの受給資格に確信の持てない人々は少なからず存在するだろう。自分は不要だが、受け取ってから本当に必要な人に寄付する、という意見もある。何しろ国家の再分配が機能せず信頼できない日本では、自らの判断に従って自主的に再分配する方が納得できるというのも頷ける。ともあれ、ここでも自分は「不要な人」なので「本当に必要な人」に「自分には不要な給付金」を自力で再分配するのであり、自発的選別主義に変わりはないのである。

 「本当に必要な人にだけ援助する」という選別主義的信念は、「よほどのことがなければ援助されるべきでない」というネオリベラルな小さな政府の自己責任原則と表裏一体である。社会的コストは削減の対象であり、「冗費」として攻撃される。恵まれた立場にあるとされる「不要な人」の代表格は正社員や公務員である。労働力の商品価値を極小化し非正規化、非雇用化を進めるネオリベラリズムにとって、それなりの生活保障をしなくてはならない正社員は基本的にお荷物でしかない。社会サービスの提供者である公務員は二重の意味で「過剰」とされる。小さな政府にとって公務員と公共サービスは「本当に必要な人にだけ」すなわち最小限でいいのである。事実日本の公務員は極端に少なく、感染対策関係機関、保健所、公立病院の運営費さえもが冗費とされてきたのである。

   「本当に必要な人に」という言説は、80年代の生活保護の「適正化」や当時は母子世帯対象だった児童扶養手当の「重点化」という政策用語を想起させる。近年では日本維新の党の好む「選択と集中」がそれに当たるだろう。

 ごく個人的な記憶を述べよう。1980年代の初めに私の母とその親きょうだいに手紙が届いた。これはおそらく生活保護給付「適正化」の方針によって出された1981年の社保123号通知によるものであったと思われる。私は留学中であり、1982年の秋に帰国してからこの話を聞いたのだが、おそらく福祉事務所からのものと思われる問い合わせの手紙は、夫が精神病院に長期入院してしまったために生活保護受給者であった母方の叔母の親きょうだい全員に届いた。その内容は、「この人をあなた方親族で扶養できないか?できない場合はその理由を知らせるように」というものであった。一族は皆つましい生活水準で、経済的余裕のある者はいなかったが、国からの問い合わせに仰天して鳩首会談を開き、長男である母の弟は、お国に迷惑をかけるのも申し訳ないし恥ずかしいから、親族で分担してなんとか生活費を出してやろう、と言い始めた。しかし最年長の母が「税金は困った時に助けてもらうために納めているんじゃないか」と一喝し、目が醒めた一族は各自が「扶養はできません」という返事を出した。暴力団の不正受給を口実とした1981年の「適正化」は、しかし、多くの善良な市民を恫喝し、生活保護受給を諦めさせたことであろう。

 選別主義は言うまでもなく「本当に必要な人」に強いスティグマを付与する。権利の行使であるにもかかわらず、申し訳ないと思う罪悪感、そして自尊心の損傷が申請をためらわせ、選別は自発的に厳格化して権利の行使を抑制する。コロナ禍はこの選別の厳格化を吹き飛ばし、私たちをそれなりに連帯させたのかもしれない。善良な人々を怯ませる「お前には不要だ」という狭量な攻撃に対抗できるのは、「誰もが必要だ」という寛容な普遍主義に他ならない。折しも留学生への支援を成績上位3割に絞るという驚くべき選別主義に抗議の声が上がっている。多くの人々を困らせているコロナ禍は、潜在していた寛容な普遍主義を起動させているのかもしれない。自由で多様な個人の連帯はそこから生まれる。