
「ポルトガル、夏の終わり」 イザベル・ユペール

「ポルトガル、夏の終わり」 フランキーとアイリーン
ああ、旅に行きたい。コロナのおかげで、どこへも行けない。
ならば旅に出たつもりで、映画「ポルトガル、夏の終わり」(監督・アイラ・サックス。フランス・ポルトガル映画。2019年/原題:FRANKIE)を見に行く。イギリスの詩人バイロンが「この世のエデン」と謳ったポルトガルの町「シントラ」が舞台。
主人公の女優フランキー(イザベル・ユペール)は、自らの死期を悟り、自分亡き後のことを整えようと、夫・ジミーと元夫のミシェル、息子のポール、義理の娘・シルヴィア夫婦と孫娘のマヤ、ヘアメイクアップアーティストの女友だち・アイリーンを、ポルトガルのシントラへ招く。ホテルへ向かう坂道、アズレージョ(陶板)が美しい泉、緑深い森の小道で、フランキーに招待された人々が、偶然に出会い、言葉を交わし、次々と登場する。しかし、そこには彼女はいない。
夏の終わりの1日。それぞれの人生が描かれ、自らの思いを物語る。信頼する女友だちのアイリーン(マリサ・トメイ)とフランキーが交わす言葉がいい。フランキーがアイリーンに語る、「探す前に発見せよ」は、映画の結末を暗示する引喩でもある。だが、フランキーの思いは筋書き通りには進まない。それぞれの人生は、みんな一人ひとり、自ら選びとるものだから。彼女がいなくなった後も、日常は何も変わらず、時は、淡々と流れていく。ラストシーン、遠くの海に沈む夕日をバックに、ペニーニャ山頂に集う全員のシルエットを、ロングショットで撮った遠景が、静かで、美しい。
12年前の2008年9月1日~9月12日、夏の終わりのポルトガルを旅した。
リスボン~ロカ岬~シントラ~コインブラ~ポルト~レグア~ピニャオン~ギマランイスへ。
今は亡き若桑みどり著『クアトロ・ラガッツィ』を読み、400年以上も昔、天正少年使節団の4人が、遠く世界を駆け抜け、彼らが踏んだ異国の地・ポルトガルを訪ねてみたいと思ったから。
1582年2月、4人の少年たちは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らキリシタン大名に送られ、イエズス会のヴァリニャーノ巡察師に伴われて長崎を出航。マカオ、マラッカ、ゴアを経て1584年8月、リスボンに到着。今も残るイエズス会「サン・ロケ教会」にしばし滞在、長旅の疲れを癒したという。
時代ははるかに下っても、ユーラシア大陸の西の果て・ポルトガルまで24時間の旅は遠い。乗換えのイギリス・ヒースロー空港にTAP(ポルトガル航空)の窓口はなく、イタリアのアリタリア航空と共同だと知る。搭乗直前、電光版でゲートを確認し、ようやくチケットが発券される。おまけに乗った小型のプロペラ機は操縦席のドアが開いたまんま。大丈夫かな。夜9時過ぎ、到着が遅れて目指すバスは終バスが出た後。別ルートのバスの運転手に「ロシオ広場に行く?」と確認すると、「行くよ」と聞いてサッと飛び乗る。ランタンが灯る夜の町を探し、探して、やっとホテルにたどり着いた。

展望台から見えるサン・ジョルジェ城

ケーブルカー(ピッカ線)
リスボンは7つの丘の町。展望台から見える町の風景、丘の向こうのサン・ジョルジェ城は、まるで一枚の絵はがきのよう。ケーブルカーや市電が細い道路を、軒をかすめて走り抜ける。裏通りに入れば古い町並みに庶民的な食堂や雑貨店が並び、窓には満艦飾の洗濯物が風にはためく。台所から夕食のにおいが漂い、ねこがふらりと顔を見せる。地元の人が行くレストランは安くておいしい。イワシの塩焼き、アローシュ・デ・マリシュコ(シーフードリゾット)を食しつつ、お客は、2009年、2010年FIFAワールドカップのサッカー談義に、かしましい。
グロリア線のケーブルカーで天正少年使節団が滞在したサン・ロケ教会を訪ねる。日本で没したポルトガルの作家・モラエスの生家を探してラウラ線のケーブルを上り、迷っていたら「ここだよ」とおじさんが案内してくれる。壁のアズレージョ(陶板)には日本語で「祖国に思いを馳せつつ、かの地に死せり」とあった。

シントラ(ムーアの城跡)
ロカ岬
ポルトガルの夜明けは遅く、朝は川霧が立ち込める。昼は燦々と輝く日差しがまぶしい。1日チケットを買い、バスでユーラシア大陸最西端・ロカ岬へ向かう。着くと、一帯は真っ白い霧の中。なんにも見えない。仕方なく、シントラへ。バスは深い霧の中をものともせず、森の小道をビュンビュン飛ばして走り抜ける。シントラに到着。エキゾチックな王宮を、ぐるっと見学した後、正門からムーアの城跡を眺めていたら、急に霧が晴れてきた。「そうだ。もう一度、ロカ岬へ行こう」。バスの時刻を調べると大丈夫、間に合う。もう一度、訪れたロカ岬は、なんと雲一つなく、くっきりと青い空と海が広がっていた。正解。ロカ岬とシントラを1日2往復するなんて。ツレは呆れて「みねさんは、時々、おかしなことを発想するけど、たまには、うまくいくこともあるんだね」と笑った。
16世紀の詩人カモンイスが、「ここに地果て、海始まる」と詩に残した岬。沢木耕太郎が『深夜特急』の最終地にザグレスを選んだのなら、私はユーラシア大陸最西端・ロカ岬に立ち、「海の向こうにイギリスが見えるよ」と、晴れた大西洋に向かって叫んでみた。
CP(国鉄)の時刻表を調べて、AP(特急)、インテルシダーデ(急行)、レジオナル(普通)、ウルバノス(都市近郊線)に全部乗る。しかも誕生日を迎えたばかりの前期高齢者の私は、交通費も入館料も全部シニア料金で半額。申し訳ないくらい。リスボンからコインブラまで急行で2時間。静かな学びの町にはヨーロッパ最古のコインブラ大学がある。夕刻、雨になり、宿の主人に「傘をお借りできますか?」と尋ねると、井上陽水の歌じゃないけど、「傘がない」。しばらくして物置から破れ傘を探してきてくれた。雨のコインブラも穏やかで静かな町だった。

ポルト(サン・ベント駅)

ドウロ河のぶどう畑
コインブラからポルトへAP(特急)で1時間。サン・ベント駅は元修道院を改装した建物。ちょうどその日は、ドウロ河上空をパイロットがアクロバット飛行を競いあう「Red Bull Air Race」の日と重なっていた。人波に背を向け、ポルト東方100キロの山岳地帯、ポートワインの里・レグアへ。ローカル線で2時間、ゆったりと流れるドウロ河を遡る。車窓から見える山の斜面は一面のぶどう畑。かつて、ぶどうの収穫は帆船や鉄道で運ばれたというが、今は車輸送に代わったという。船着場で買ったぶどうを一房、口に含むと、ホロリと甘く、いい香りがした。
レグアからさらに奥地のQuinta(荘園)の町・ピニャオンまで足をのばす。ぶどうの収穫やワインの積み出しを描いた駅舎のアズレージョが見事だ。
翌日はポルトガル発祥の地・ギマランイスへ。14、15世紀そのままのサンタ・マリア通りを歩けば、どこからかファドの音色が聴こえてきた。10世紀につくられたという、石づくりの巨大な要塞・ギマランイス城から町を一望。時の権力者の富と力と、それを支えた人々の苛酷な労働を、ふと思う。

ピニャオン駅

ポルト(ポリャオン市場)
ポルトに戻り、前払いのキャッシュだと4ユーロまけてくれる古いレジデンスに泊まる。ポリャオン市場は色とりどりの果物がいっぱい。近くのお店でコンフェイト(confeito)を買う。量り売りで1キロ300円ほど。坂を上り下りするお年寄りも元気そう。子どもたちも大切にされている。アフリカンの人たちも、よく見かける。暮らしぶりは地味だけど、ここはどんな人も受け入れる、住みよい町なんだなと思った。
再び、少年使節団に戻る。彼らは念願のローマ教皇謁見を果たして、1586年、リスボンを出航。1590年、長崎へ帰還する。しかしその後、悲しいことに厳しいキリシタン弾圧を受け、それぞれに苛酷な運命をたどることになるのだが。かつて世界を駆け抜けた少年たちが、かの地で何を見、何を感じて考え、行動したのだろうと、はるか後の世の今、もう一度、考えてみたい。
少年たちを率いたヴァリニャーノ巡察師は、人文主義の教養を身につけた「違いのわかる男」。彼が広めたキリスト教用語の日本語訳の一つに「愛」という言葉がある。「愛とは、ひとを大切に思うこと」と訳されたという。その言葉に心動かされ、ポルトガルに感謝を込めて、「オブリガーダ」といわなければ。
きっと、いつかまた、ポルトガルに行くからね。
映画「ポルトガル、夏の終わり」© 2018 SBS PRODUCTIONS / O SOM E A FÚRIA © 2018 Photo Guy Ferrandis / SBS Productions
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