ふつうに「日本語小説」のつもりであるが、日本語圏の一般読者にはなかなか読んでもらえそうもないなあ、と、著者自身がついぼやいてしまう方法で書かれた小説である。卑下しているわけでも韜晦しているわけでもなく。沖縄の「シマコトバ」といわれる「異言語」がところどころで「ごった煮」されてにごった泡ぶくを噴き、そんなコトバで語りつづけるのは、現実には出会うことのないような女ばかりである。そのうえ、書いた本人がいうのもなんだが、物語そのものもわかり易いとはいいいがたい展開をしてしまう。オチのないしまりの悪い物語というか、終わりの見えないコトバの旅というか・・・。
そんなふうに書かざるを得ない理由があった。戦後9年目に沖縄の離島で生まれ育ち、「標準語励行」の教育制度下、「ヤマトユー」と「アメリカユー」をくぐって生きてきた著者の言語生活は、なかなかにこなれない「日本語」と「シマコトバ」が混在し、話す、書く、行為のうちにもちぐはぐ感は避けがたく顕れた。その言語感覚は、沖縄の言語の歴史にあるらしい、ということに気づいたとき、ぎゃくに、そのちぐはぐ感そのものを小説の方法にしようと考えた。
歴史の暴力によって見えなくされてしまった存在への想いが、絶ちがたくあった。沖縄という地域に住んでいると、戦争の傷を背負った人々の体験、記憶、それを語る声が否応なく聴こえてくる。その声は、ときに声高に叫ばれることもあるが、その陰で掬い(救い)とられぬ声が、どこそこの闇のに沈み、ひょっとしたきっかけで弾かれ、浮き、マブイとなって漂いつづける空間がある。ある時期から、それら失われた「命の声」をどうにか想像するコトバを探したいと、願った。 それを促したのは、わたし自身の母の死の床で発された「記憶の声」だった。じつは、母の声は、母自身のというより、七十数年前の、あの戦争時に母の聴いた「他者の声」だった。残酷な戦争の犠牲者である「従軍慰安婦」と呼ばれる女性の発した声だった。謎は、母の記憶語りの声そのものにあった。解いてはいけない謎を追いかけるように、母の遺言に責め立てられるように書いたこの小説が、オチのない、終わりの見えないコトバの旅になるのは仕方のないことだった。
◆崎山多美(さきやま たみ) 1954年西表島生まれ。「水上往還」で九州芸術祭文学賞受賞。同作と「シマ籠る」で2回の芥川賞候補に。作品集に『ゆらてぃくゆりてぃく』『うんじゅが、ナサキ』など。エッセイ集に『コトバの生まれる場所』など。
◆書誌データ
書名 :月や,あらん』
企画編集:なんよう文庫
発行 :インパクト出版会
刊行日:2020/07/25
頁数 :252p
定価 :2000円+税