「私はアスリートである前に、一人の黒人の女性です」
 世界が注目するテニス選手・大坂なおみの言葉だ。二度目の優勝を果たした全米オープン直前の「ウエスタン・アンド・サザン・オープン」準決勝では、白人警察官による黒人男性銃撃事件に抗議し、試合の棄権を表明(後に撤回)。「アスリートが政治を語るな」という批判にも怯まず、全米オープンでは犠牲者7名の名前を入れたマスクを試合ごとにつけて意志を表明し続ける姿に多くの人が力づけられた。
 アメリカで無実の黒人を白人警官が銃撃する事件が相次ぎ、世界中で広がった抗議運動BLM(Black Lives Matter)。今回の報道の中で、アメリカでは黒人の多くが外出時の被害を避けるために、服装や振る舞いに細心の注意を払って生活し、親は子どもに、警察から銃撃されないための対応を徹底して教えるという、にわかには信じがたい事実を知った。大坂選手のような若い世代がリアルタイムで声を上げる姿と共に、海の向こうの黒人差別は近年無くなりつつあると思っていた私のような一日本人にとって自分の認識の甘さを思い知らせるには充分だった。黒人差別は歴史の教科書に書かれた過去の話ではなく、まさに今を生きる私たち、大坂選手のような若者や子どもたちまでもが直面している問題なのだと。
 そんなBLM運動が世界中で盛り上がる最中に編集作業を進めたのが本作『ワシントン・ブラック』だ。アフリカ系カナダ人の女性作家エシ・エデュジアンによるこの小説が発表されたのは、2018年。同年のマン・ブッカー賞の最終候補作となり、カナダの文学賞スコシアバンク・ギラー賞を受賞、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストなど有力紙のトップテンブックス・オブ・ザ・イヤーにも選ばれた。
 物語は1830年の東カリブ・バルバドス島で幕を開ける。主人公のワッシュことワシントン・ブラックは砂糖農園で働く11歳の黒人奴隷。親を知らずに育ち、冷酷で暴力的な農園主のもとで過酷な日々を生きていた。ところがある日、農園主の弟ティッチに見込まれ、科学研究の助手となる。読み書きや科学の知識を学び、スケッチの才能を開花させるワッシュだが、ある事件をきっかけに追われる身となり、ティッチと共に作った気球で島を脱出、なんと二人は北極を目指す――。
 そのように説明すると、『ハックルベリー・フィンの冒険』や『アンクル・トムの小屋』、あるいはジュール・ヴェルヌのような冒険小説を想像する方もいるかもしれない。もちろん、そういった要素も本作は多分に含んでいる。が、一言で「歴史小説」「冒険小説」などとカテゴライズできない複雑さ、多様さこそが、『ワシントン・ブラック』の最大の魅力だ。物語はワッシュが18歳となる1836年までを描く。その6年間で、命ですら他者の所有物――作中にも、自死を選んだ奴隷に対し、農園主が「そいつはわたしの奴隷だった。それなのに、勝手に死んでのけた。つまり、わたしから自分を盗みとったのだ。つまり泥棒なのだ、そいつは」と罵る場面がある――という境遇に生まれた少年が、一人の白人男性との交流によって自我に目覚め、やがて自由の身となり、さらには自分の人生を変えたティッチにとって自分とはどのような存在だったのか、そもそも自分とは何者なのかを探し求める壮大な人生の旅こそが、この小説の全てとも言える。
 ワッシュが十代を生きた6年間を通して、歴史が現在と地続きであることをまざまざと思い知らされる。私にとって彼のモノローグは、大坂選手の言葉とたびたび重なり合いながら、私自身が負の歴史とどう向き合うのかという問いを突きつけてくるものだった。
 とはいえ、人種差別問題だけを描いた辛い物語ではない。私は本書を読みながら主人公と一緒に冒険し、成長し、人生の旅をした。子どもの頃、海外児童文学に我を忘れて夢中になった、あの感覚が蘇ってくる。何よりも今、この時代に出会えたことを心の底から幸せに思える、そんな小説だ。多くの方に読んでいただくことを願っている。                                  (小学館 文芸編集室 皆川裕子)

◆著者・訳者について
著者:エシ・エデュジアン Esi Edugyan
カナダ・アルバータ州出身。ヴィクトリア大学で学び、2004年に『The Second Life of Samuel Tyne』でデビュー。2011年、『Half-Blood Blues』でカナダ最高峰の文学賞スコシアバンク・ギラー賞を受賞。2018年、本作で再び同賞を獲得。本作はニューヨークタイムズを始め、ワシントンポスト、タイム、エンタテインメントウィークリー他、有力各紙のトップ10ブックス・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、さらにマン・ブッカー賞の最終候補作となった。

訳者:高見 浩 Hiroshi Takami
東京生まれ。出版社勤務を経て翻訳家に。主な訳書に『ヘミングウェイ全短編』『日はまた昇る』『誰がために鐘は鳴る』『老人と海』(E・ヘミングウェイ)、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』『カリ・モーラ』(T・ハリス)、『カタツムリが食べる音』(E・T・ベイリー)、『眺めのいい部屋売ります』(J・シメント)、『北氷洋』(I・マグワイア)など。著書に『ヘミングウェイの源流を求めて』がある。

◆書誌データ
書名 :ワシントン・ブラック
著者名:エシ・エデュジアン
訳者名:高見浩
頁数 :446ページ
出版社:小学館
刊行日:2020/09/15