
少し涼しくなり、山積みの本を整理しようと思い立った。本棚の奥に隠れていた一冊の分厚い本を見つけた。「ん? この本、読んでなかったっけ」「早く読んで!」と、声が聞こえたような気がして、読み始めたらもうやめられない。血湧き肉躍る、壮大なスケールの伝記だった。
中薗英助著『鳥居龍蔵伝 アジアを走破した人類学者』(岩波書店 1995年3月)。
「日本文化の源流と歴史の古層を求め、戦時下の東アジアを走破した人類学者・鳥居龍蔵。自由な学風を許さない時代、大学の要職を辞去し、家族とともにフィールド・ワークを続けた鳥居は膨大な記録と写真資料を残したが、他民族への深い文化理解はいかに可能となったのか、その壮絶なる全生涯に挑んだ、大佛次郎賞受賞の大作」と、帯にある。
大好きな作家、中薗英助(1920年~2002年)の『北京飯店旧館にて』(筑摩書房、1992年、読売文学賞)『北京の貝殻』(同、1995年)を読み、その後、この本を買い求めたのかもしれない。
中薗英助は福岡県立旧八女中学校を卒業後、旧満州を経て北京へ遊学。1940年、東亜新報記者となる。1939年、鳥居龍蔵は中華民国北京の米国ミッション系燕京大学に客座教授として招聘されていた。その頃、鳥居龍蔵と中薗英助は同じ北京の空の下にいたんだ。
1929年、中国の人類学者・裴文中が北京周口店で北京原人の頭骨化石を発見する。だが、1941年、太平洋戦争勃発のさなか、北京協和医科大学解剖学教室の金庫に保管されていた頭骨化石が忽然と姿を消す。頭骨の行方について中薗英助は鳥居龍蔵に取材を試みようとしたが、当時、燕京大学は日本軍占領下、軟禁状態に置かれていた鳥居へのインタビューは果たせなかったという。北京原人の頭骨化石の行方は、今なお謎のままだ。
その後、中薗英助は1946年、日本に引揚げ帰国。1948年、中華人民共和国成立後、1951年、鳥居龍蔵も北京から帰国し、その2年後、1953年、東京のカトリック系聖母病院に入院。病床で書いた「考古学の回顧」が絶筆となった。享年、82歳。

一方、中薗英助は帰国後、推理小説作家として多数の著作を世に送り出す。『北京飯店旧館にて』の「あとがき」には「日中戦争から太平洋戦争にかけての8年間、一居留民として暮らした中国から1946年、引揚げ帰国、1987年に北京を再訪するまで41年間という歳月が必要であった。なぜか静心もて中国には帰りにくいという気持ちがあった」と書く。40年ぶりの北京。「わたしが愛した胡同のぬくもり、心通わせた文人たち、市井の人々への思い」を語る中薗の文章は、私自身の思いにもつながる。1943年、北京の王府井近く、東単の胡同に生まれ、母の病気で、生後数カ月で日本へ帰国した私。1990年、初めて訪ねた北京の街を歩き、大きなドンゴロスを背負い、バスに乗り込む人々の、おおらかで、ゆったりとした風情に重ねあわせ、中薗英助の本を味わい深く読んだ。
さて『鳥居龍蔵伝』に戻る。鳥居龍蔵は1870年(明治3年)、徳島県に生まれる。小学校を中退。独学自習で人類学を学ぶ。1877年の東京帝国大学設立後、東京人類学会幹事の坪井正五郎と16歳で出会い、23歳で東京帝国大学理科大学人類学教室標本整理係となり、坪井教授に師事。1895年、25歳で東京人類学会から派遣され、初の海外フィールド・ワークへ1人、草鞋履きで遼東半島の調査に向かう。まるで伊能忠敬みたい。日露戦争下、「析木城の戦い」で知られる場所でドルメン(支石墓)を発見。「ドルメンじゃ! ドルメンじゃ!」と巨石のまわりを走り回ったという。さらに台湾奥地への人類学調査では東京地学協会会長の榎本武陽から、時の台湾総督・乃木希典将軍への紹介状を預かって行く。榎本は旧幕臣として五稜郭の戦いを経て明治維新後、新政府の閣僚となり、1875年、特命全権大使として露都ペテルブルクで千島・樺太交換条約を結んだ帰途、シベリアを馬車で横断したという探検家でもあった。
その後、鳥居龍蔵は、中国西南部・苗(ミャオ)族の調査、シベリア、千島列島、沖縄など東アジア各地を走破。「沖縄学の父」と呼ばれた盟友・伊波普猷と共に沖縄の奥地へ足を運ぶ。それらの調査について中薗英助は、「鳥居自身の研究プロジェクトではなく、歴史の流れの中で、対象が彼自身を選んでとらえたというべきであった。対象は彼の最も好んだ地域「極東」、極東を解明すべき使命にしたがって営々と努める使徒となったといってよいかも知れない」と書く。満州調査を前後10回、蒙古調査を前後5回。侵略戦争下、国家と一定の距離を置きつつ、独自の学問を打ち立てていく人類学者・鳥居龍蔵の姿が生き生きと描かれてゆく。
なかでも妻・きみ子と共に向かう蒙古への旅が圧巻だ。1901年、市原キミ(結婚後はきみ子)と結婚。キミは鳴門の尋常小学校訓導から東京上野音楽学校へ入学。20歳だった。1906年、きみ子夫人が蒙古喀喇泌王立女学堂の教師に請われたのをきっかけに、「ねぇ、あなた! 蒙古に行きましょうよ」「行ってくれるか」と2人で蒙古行きを決定。きみ子が先に出発、鳥居が後を追う。1907年から3年近く、生後3カ月の娘幸子をつれて親子3人、前人未到の東蒙古から外蒙古への旅。現地人と同じく馬を駆け、極寒酷暑の厳しい自然のもと、調査を続けた。
1922年、鳥居龍蔵は東京帝国大学助教授に昇進。第二代人類学教室主任となるも、1924年、さまざまな経緯の後、大学を辞職。自宅で「鳥居人類学研究所」を創設。1927年、パリ留学中の長男・龍雄が客死した後も、妻きみ子、長女幸子、次女緑子、次男龍次郎らと共に国内外の調査を続ける。その間、鳥居龍蔵主宰の「武蔵野会」は東京市中の遺跡を探訪する民間団体として、来る者を拒まず、会員は何人も問わず歓迎され、多くの人脈を育てて20数年、続いたという。
妻きみ子、子どもたちとの好ましい関係は、あの時代には稀有な、彼なりのフェミニズム観をもっていたのではないか、と思われる逸話が数々ある。きみ子は龍蔵の死後、図書文献類を整理しつつ、1959年、78歳で死去。2人は今、徳島の鳥居龍蔵記念博物館のドルメン型墓碑に眠る。
鳥居龍蔵は、自伝の「結語」を「私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。されば私は私自身を生き、私の学問も私の学問である。そして私の学問は妻と共にし、子供達とともにした。これがため長男龍雄をパリで失った」と締めくくる。「侵略は空しく学業は永し」を証明する、真の意味での、鳥居龍蔵の「自助而自力」というべきか。
このところ日本学術会議の6名の学者が任命を拒否され、ゆゆしき問題として話題になっている。学問は何よりも自律し、どこからも自由でなければならない。明治、大正、昭和を駆け抜けた先達の学者が、確かにそこに在ったことに、鼓舞される思いで読了した。

もう一冊、シクルシイ著『まつろはぬもの 松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生』が手元にある。シクルシイ(和名・和気市夫)と2つの名前をもって生きたアイヌの自伝。1918年に生まれ、2000年、82歳で亡くなるまで、数奇な一生をたどる。「子どもの頃から神童として知られ、南満州鉄道(満鉄)理事の松岡洋右に選ばれ英才教育を受ける。1929年、11歳でハルピン大学入学。英語・仏・露・中・モンゴル語・ラテン語・ギリシャ語を学び、体術・銃器・爆薬・無線通信・暗号などの教育を受ける。1931年、13歳でロックフェラー財団の北京燕京大学人類学部多言語科に入学」。あっ、鳥居龍蔵が、燕京大学に招聘される8年前のことだ。
その後、「『薫之祥』の中国名で学術調査を行いつつ、中国・中央アジア・南アジア・アフリカ・アメリカの各国を回る。その間、北千島アイヌ語の博士論文も記す。1938年~1945年、松岡洋右の命を受け、アジア各地で日本軍の戦争中に起こした暴虐行為の真偽の調査を行う。1945年、中華民国公安部に逮捕され、拷問・土牢拘置を経て、1946年、極東国際軍事法廷で松岡の戦犯容疑の重要参考人容疑者としてアメリカに引き渡されるが、松岡の死去により不起訴となる。戦後は生命保険会社の人権問題研修推進本部理事会顧問などを務めた」とある。
同じ時代、同じアジアの地で学び、研究し、袖摺り合わせたかもしれない人々がいた。鳥居龍蔵と中薗英助とシクルシイと。あの時代、彼らはどのように自らを生き抜いたのだろうと、はるかに思いを馳せて本を置く。
1989年、私は、この本を編んだ部落解放研究所の加藤昌彦さんから頼まれ、シクルシイ手書きの原稿をワープロで入力したことがあった。それから21年後の2010年、編者の熱意がようやく実り、「ヤイユーカラの森」から世に出る。今は寿郎社から出版されている。
余談になるが、私が富士通の「親指シフト」のワープロを打ち始めたのは、かつて「毛沢東思想学院」事務局長(現在は中国黄土高原を緑化する「緑の地球ネットワーク」(GEN)副代表)の高見邦雄さんに手ほどきを受けたのが始まり。高見さんに、私の2冊目の本『関係を生きる女(おんな)』(批評社、1988年)の手書き原稿を「ワープロで打ち直しなさい」と命じられ、半泣きで打って、250頁の本の原稿を10日で仕上げてマスターすることができた。キーの配列が独特の「親指シフト」は入力速度が3倍も速い。ところが今年、富士通は、そのキーボードの製造販売を中止したのだ。「ああ、どうしよう」。急ぎ、予備のキーボードを買い求めたが、全国の「親指友の会」のみなさん、どうされていますか?
閑話休題。高見さんの縁で晩年、一度だけ講演をお聴きしたことがある大塚有章について。戦中から戦後、満映から八路軍に参加。中国革命を共に闘い、帰国後、毛沢東の大衆路線継承のため、宝塚に「毛沢東思想学院」を開いた大塚有章と、その著書『未完の旅路』全八巻については、またの機会に触れたい。大塚有章も、鳥居龍蔵、中薗英助、シクルシイと同じ時代を生きたのだ。
ああ、本はいいなあ。本の中で、会いたい人たちと、いつでも、どこでも出会えるんだもの。そして人と人とを、難なくつなぎあわせてくれる、不思議な、不思議な本の世界があることが、本当に、うれしい。
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