RBG 最強の85才

       ビリーブ 未来への大逆転


 「9月18日、米連邦最高裁は、ルース・ベイダー・ギンズバーグ判事が亡くなったと発表した。87歳だった。大統領選を目前にした死去は、今後のアメリカの国のあり方に大きな影響を与える可能性がある」とイギリスのBBCニュースは報じた。

 ギンズバーグを追悼してドキュメンタリー「RBG 最強の85才」(監督・プロデューサー/ジュリー・コーエン、ベッツィ・ウェスト。2018年、アメリカ)と、ギンズバーグがモデルの映画「ビリーブ 未来への大逆転」(原題・ON THE BASIS OF SEX。監督/ミミ・レダー。ギンズバーグ/フェリシティ・ジョーンズ。マーティン・ギンズバーグ/アーミー・ハマー。2018年、アメリカ)を見に行く。ドキュメンタリーの主題歌「I’ll Fight」(ジェニファー・ハドソン)の歌声が胸を打つ。

 ギンズバーグは1933年、オーストリア系ユダヤ人の母とウクライナからのユダヤ系移民の父との間にニューヨーク・ブルックリンに生まれた。まだ女性が高等教育を受けることが難しかった時代、1954年、コーネル大学を卒業。在学中、将来、夫となるマーティン・D・ギンズバーグと出会い、ともにハーバード・ロースクールへ進学。在学中、夫のガンの闘病を支え、生まれたばかりの娘の子育てと夫の授業の二人分の課題提出をこなし、夫がニューヨークの弁護士事務所に就職後はコロンビア・ロースクールへ転学、首席で卒業する。しかし1950年代のアメリカは、まだ女性弁護士を受け入れる法律事務所はなく、やがて1963年、30歳でラトガーズ・ロースクール教授となる。

 1970年代、世界中に女性解放運動のうねりが高まる中、1971年、アメリカ自由人権協会(ACLU)による「女性の権利プロジェクト」の立ち上げに尽力。法律における性差別に終止符を打つため、顧問弁護士として活躍する。同年、最高裁が初めて憲法修正第14条「平等保護条項」を「女性差別」に適用した「リード対リード」裁判をはじめ、その後、彼女が最高裁で弁論を行った6件のうち5件に勝訴した。

 1980年、ジミー・カーター大統領に D.C.巡回区控訴裁判所裁判官に指名され、1993年・ビル・クリントン大統領に女性として史上2人目の最高裁判事に指名される。その後、ギンズバーグは晩年まで、女性をはじめ、マイノリティの「法の下の平等」実現に大きな功績を残すことになる。その陰には夫マーティンの公私にわたる支援があったことを、ドキュメンタリーでも映画にもサラリと描かれていたのが、心地いい。

 近年、トランプ大統領の意向で最高裁判事の任命は保守派が増え、定数9名中、5名が保守派、進歩派は4名となっていた。2020年11月3日の大統領選挙の1カ月半前に亡くなったギンズバーグの後任人事を、トランプは、いち早く10月26日、米上院にはかった。「米上院(定数100)本会議は連邦最高裁判事に保守派のエイミー・コニー・バレット連邦控訴裁(高裁)判事を充てる人事案を、賛成52、反対48で可決した。その結果、最高裁は保守派6人、進歩派3人となり、今後、医療保険制度や人工妊娠中絶をめぐる判断に影響が出ると指摘されている」(毎日新聞ワシントン古本陽荘)。

 ギンズバーグが母から教えられた言葉は二つ。「BE A LADY and BE INDEPENDENT」。静かに相手を説得すること。そして自立すること。

 「自分とは異なる見解の判事の意見をよく聞き、自らの主張を理解できるよう手助けすること。そうすれば意見は変えられる。そして事態はきっと進展する」との思いで弁論活動を続けたという。

 「今、世界でもっとも必要なことはなんだと思いますか?」「一言で表すとしたら『他人の声に耳を傾けること』でしょうね。そう、きちんと聴くことです。現代人は同じ考えの人としか話をしない傾向があります。ソーシャルメディアもその傾向を助長していると思います」 (ジェフ・ブラックウェル&ルース・ホブデイ/編、橋本恵/訳『ルース・ベイダー・ギングバーグ』あすなろ書房)。

 さらに、「われわれ『アメリカ合衆国国民』とは、かつて除外されたり、無視されたり、軽んじられたりした人々、すなわち奴隷や先住民族、女性など、そういう人々を含めるようになったのです。あっ、アメリカのモットーが浮かびました。『多くからひとつへ』を意味する『エ・プルリブス・ウヌム』(ラテン語の成句。「多州から成る統一国家」アメリカ合衆国を指す)という言葉です」 (2019年8月26日、バッファロー大学名誉教授学位授与式でのスピーチより)。

          カマラ・ハリス

 そしてもう一人、ガラスの天井を破る女性が現れた。11月3日のアメリカ大統領選挙で、やっとトランプが敗れ、ジョー・バイデンが勝利した。バイデンの指名を受け、カマラ・ハリス上院議員が米国で初の女性副大統領に就任することになる。ハリスは、タミル系インド人の母とジャマイカ人移民の父をもつ、上院唯一の黒人女性議員。主要政党の副大統領候補に選ばれた女性としては3人目。黒人では初めて。これまでカリフォルニア州司法長官や上院議員を歴任している。

 1920年、女性の投票権を認めた米国憲法修正第19条が誕生したのは、ちょうど100年前。日本の女性参政権が公布されたのが1945年、75年前だ。アメリカでは公民権運動の結果、投票権法が成立し、黒人が選挙権を獲得したのは、ずっと遅れて1965年、今から55年前のことだ。

 11月7日(現地時間)、次期副大統領となるカマラ・ハリスは、勝利演説で「私が初の女性副大統領となっても、私が最後ではない。後に続く小さな女の子たちが必ずバトンをつないでくれると思うから」と語った。


 翻って日本にも、ガラスの天井を破る女性たちはいっぱいいる。「Mentor」ではなく、「Wo mentor」。目標となる女性たちは身近にいる。先日、いただいた著書『竹中恵美子卒寿記念 働くこととフェミニズム 竹中恵美子に学ぶ』(フォーラム労働・社会政策・ジェンダー編 ドメス出版、2020年10月25日)の大阪市立大学名誉教授、元ドーンセンター館長の竹中恵美子さんも、そのお一人。

 1985年制定の男女雇用機会均等法の前夜、「平等」か「均等」か、をめぐって女の運動が大きく揺れ動いていた頃、労働法がご専門の経済学者・竹中さんに、京都の女たちが開く集会に来ていただき、「男女平等」の立場からお話を聴くことがあった。ベレー帽を被り、いつも優しい竹中さんと、幸せにも同席させていただく機会があった。その時、今はもう亡くなられたおつれあいの姜在彦さんとの若い頃のお話を楽しそうにされ、こちらもうれしくなるようなひとときを、ごいっしょさせていただいたのも、懐かしい思い出だ。

 そして私をフェミニストに育ててくれたウィメンズブックストア店長の中西豊子さんも、大事なお一人。あ、中西さん、ギンズバーグと同い年なんだ。1982年、日本初の「女の本屋」(ウィメンズブックストア松香堂書店)を設立。日本各地に女の本を広め、さらには「これからは女の情報をウェブで届けるポータルサイトをつくらなければ」と、2009年、「ウィメンズアクションネットワーク(WAN)」の立ち上げを呼びかけた人でもある。あれから11年、「WAN」は特定認定NPO法人となり、日本に、世界へ、女性の活動をどんどん発信し続けている。女たちに「WAN」があってほんとによかった、と思う今日この頃。

 46歳で離婚した私。内灘への離婚旅行から帰り、ハローワークの紹介で、おそば屋さんで働いていた私に、1990年、「女の企画会社を立ち上げたから来ない?」と声をかけてくださり、離婚後、いつまでもメソメソしていた私を「フェミニストの風上にもおけない」と叱りながらも、あたたかく応援してくれた中西さんに、心からの感謝を忘れない。偶然、ご近所に住み、「WAN」や「高齢社会をよくする女性の会・京都」や読書会など、今もたくさんのご縁をいただいていることが、とってもうれしい。

 ガラスの天井(Glass Ceiling)を破る女たち。彼女たちは過去にも数多くいた。現在も次々と登場する。そして未来も。小さい女の子たちへ。あなたたちが、必ずや後に続いてくれることを、私たち、心待ちにしているからね。

「RBG 最強の85才」
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「ビリーブ 未来への大転換」
https://gaga.ne.jp/believe/