現代日本で死亡者数が最も多い年齢は女性93歳、男性87歳。そんななかピンピン期を過ぎ、体力・気力も低下し始める70代後半以降、自分の人生の「おさめどき」「やめどき」をいつ・どのような形でしていくか。それが高齢女性たちの「長寿期人生課題」となってきている。
 本書はこのテーマをめぐる樋口恵子氏(88歳)と上野千鶴子氏(72歳)の対談集である。講演や他の活動を一緒にする機会は数多くあったが対談は今回が初めてという本書では、永年の親交で培われた信頼関係のもと、私生活も含め二人の「これまで」と「これから」の人生への向き合い方が率直に語られる。そして二人によって語られる「人生のやめどき」の違いは夫々の生き方の違いを映し出し、それによって戦後女性の地位と意識を大きく変えていった二人のリーダーの家族観、高齢者観、等の違いを知ることが出来る。加えて、そうした違いは今後の介護保険制度のあり方や高齢女性運動の方向性とも関わり興味深い対談となっている。ここではそうした視点から本書をみていこう。

◆家族観をめぐる違い
 まず、本書では「やめどき」として暮らしのさまざまな事項があげられるが、両氏が「これまで何をやり、何をやめるか」が大きく異なる点を検討することで両者の背景にある両者の生き方、家族観の違いが鮮明になる。
 最も両氏の違いが大きいのは「社会関係」のつくり方である。上野氏は「親戚づきあい、近所付き合い、クラス会、法事。…私、全部やっていません! 社会活動以外は、そっくりやめています」とすっきり。一方、樋口氏は「近所の人がゴミ出しを手伝ってくれ」「高校の同窓会にも参加」「母親の50回忌もした」と。
 自分の「墓」についても上野氏は「散骨」、樋口は「最後の終活として」考慮中。「ペット」についても上野氏は「老後は犬と一緒に庭のある家に暮らすのが夢だったが、老後がやってこない」。それに対し樋口氏は去年飼い始めた猫も加え、3匹の猫と同居中という。

 この違いはどこからくるか。それは樋口氏が家族を形成し子どもを産み育て、現在は娘と同居中という生き方、上野氏が「家族制度」を否定し家族をつくらずシングルとして生きてきた人生選択の違いが大きく関わっている。

 そして、その違いは二人の年齢差16年の間に生じた戦後日本の家族変化と大きく関わり、両氏が戦ってきた家族制度の違いを指し示す。1932年生まれの樋口氏が戦うべき相手は戦後も根強く残り続けた「家」制度下での「嫁」としての女性の低い地位であり、1948年生まれの上野氏にとっては高度経済成長期に「夫婦家族」を形成した専業主婦の女性の生き難さであった。
 そうした違いが本書でも樋口氏に「私が今度書きたいものの一つが“嫁哀史”なんです。日本全体の女性の地位と諸悪の根源は、やっぱり「嫁」だと思う」と語らせ、上野氏の「夫を自分の側に引き込んで、親戚づきあいは妻方ばっかり、好き勝手にやってきた女が、息子は手放したくないなんて、どうかと思う」という同世代高齢女性への批判につながっている。

◆介護をめぐる違い
 そして、二人のこうした家族観の違いはセクシュアリティ観の違いとも関り、それが両氏の要介護者となること、とりわけ息子による介護を受けることについての考えの違いとつながっている。

樋口「(介護されるのは嫌ですか”と)今改めて聞かれたら“はい、嫌です”とはっきり答えると思う。…特に女は羞恥心も伴うから、そういうことには厳しく躾けられて、シモがかった話をしてはいけないとか、排泄の場面を人様に見せるのは恥ずかしいことだと言われて育ちます…」(中略)。
上野「母親は息子におむつの交換をされたくない、息子も母親のオムツを絶対したくないという話があったんですが、それをどう思われます?」
樋口「私には息子がいないからわからないけれど、昔の女としてはその感覚は普通だと思う」(中略)
上野「やらずに済むから出来ないと言っているだけですよね。羞恥心というのも学習されたもので、ご都合主義的なものだということです。つまり、感覚だっていくらでも変わるものです」

◆「在宅」と「施設入所」をめぐる違い
 さらに、二人の考えは人生最期を過ごす場所を「自宅」にするか「施設」にするかで異なるのだが、「在宅継続」をめぐって親子の考えが対立するとき女性は最期まで「在宅」で生きる権利を主張すべきか、子の勧めに従い「施設入所」した方がよいのかという考えにも両氏の家族観の違いが関わってくる。
 例として挙げられる103歳で施設入所した女性と息子夫婦との関係をめぐる両氏の意見をみてみよう。

樋口「母親は哀れだけど、嫁を責めることは出来ないと思う。こういう場合、どうすればいいんですか?」
上野「息子夫婦が家を出て、世帯分離をすればいい。(施設入所というのは)老母が自分名義の家から追い出されるんですよ‥」
樋口「置き去りにするのと、施設に入れるのと、どっちがむごいか」
上野「置き去りの方が、まだましです。‥‥」
樋口「…でも、考えようによっては置き去りにする方がむごいわよ」「いまのところ、年老いた者が出ていくのが主流ですよね。‥‥親を出す方が金もかからない」

 ここでは女性が「施設入所」したことを「追い出される」と上野氏が否定的にとらえるのに対し、樋口氏は逆に「息子家族が家を出た」場合、親が「置き去り」にされ、「考えようによってはむごい」と否定的にみる。上野氏が親としてより個人としての権利を最期まで主張すべきと言うのに対し、樋口氏の方は「むごいわよ」と親子間の「家族の情」の問題としてとらえ、「年老いた者が出ていくのが主流ですよね」と息子夫婦の選択も肯定する。

◆健康寿命とフレイル期をめぐる違い
 ところで、こうした家族観からくる違い以外に、いまひとつ私の関心を引いた点がある。それは健康寿命を延ばせば「フレイル期を短くすることが可能」と考える樋口氏と、健康寿命が延びれば「フレイル期が先延ばしされもっと長くなる」と考える上野氏の「健康寿命」をめぐる見解の相違である。そして、それは二人が考える高齢女性運動の今後の方向性とも関わっていた。その点について二人は次のように言う。

樋口「私は(女性の方が男性より)フレイルな状態が長いことについて承服しがたい思いがあります」
上野「じゃあ、努力で健康寿命を延ばせると思います」
樋口「思います」
上野「努力で延ばして、フレイル期を短くできると思います? 寿命の終わりが決まっているわけじゃありませんから、健康寿命を伸ばしたら、その分、基礎体力が増えて、フレイル期がもっと長くなるかもしれませんよ。いまフレイル期について論じている人たちって、平均寿命が一定という前提の下でフレイル期を引き算しているように思えます。でも、それは違うと思う」(中略)
樋口「そのあたりの考えの違いはやっぱり上野さんと私の年の差だろうなと思うの。いまこっちはその真っ盛り。フレイルに直進中ですから。フレイルの状態は本人としてみたら、やっぱり嫌ですよ」
上野「健康寿命を先に延ばしたらフレイル期がもっと先に延びるだけですよ。…フレイルになるのは避けられないことですから」

 ここで樋口氏はフレイル期についての解釈の違いが二人の「年齢差」からくると言う。しかし、そう考えていいのか。フレイル期を健康寿命を延ばす努力で短くすることが可能と考えるか、加齢に伴う避けられない状態と考えるかは両氏の加齢観・年齢観の違いからくるのではないか。女性のフレイル期は女性の就労促進によって短く出来ると樋口氏は次のように言う。

 樋口「男女の社会的な状況の違いをみていくと、特に50代、60代、70代になっても、男と女の社会的な差は社会参加、つまり就労なんです。…50代から70代の無理のない就労と不合理な不平等を避けて、社会参加という名の就労が出来ることによって、女の健康寿命はもっと延びるんじゃないかと思うんです」

 それに対し、健康寿命を延ばせばさらにフレイル期が延び、フレイル期は避けられないと考える上野は「はい、そのために要介護認定というものがあって、介護保険が出来たわけです」とその時期の暮らしを支える制度としての介護保険を考える。

◆超長寿化時代を生きるには
 こうして「人生のやめどき」の背景にある両氏の考え、向き合い方の違いをみていくといくつかのことがわかってくる。高齢女性にとって人生の「やめどき」をどう考え、どう決着させていくかはその人の家族観、加齢観・年齢観と深く関わっている。そして、それはその人が生きた時代に色濃く影響され、時代の制約を容易に捨て去れない。そうした事実である。
 しかし、これからさらに進むのは樋口、上野両氏がよってたつ時代から一段と超長寿化とシングル化が進み、長寿期をどこで過ごし誰に支えて貰うか、最晩年期の権利擁護を誰にして貰うかの問題が不確定化し、さらに深刻化する時代である。
樋口氏は「力の弱った高齢者層が量的にも質的にも高齢者の過半を占める現実に直面しています。今までみえなかったこの層の社会参加、ケアの質と量、家族に代替する信用供与の方法など、初めての問題が山積しているんです」と言う。
こうした問題に私たちはどのような視座に立って向き合うのか。私自身の視座はどこにあるのか。本書を読んで改めて考えたのはそうしたことだった。

◆書誌データ
書名 :人生のやめどき――しがらみを捨ててこれからを楽しむ
著者名:樋口恵子・上野千鶴子
出版社:マガジンハウス
刊行日:2020/09/24
定価 :1540円(税込)