なぜ「こう」なのか、を問い、「国道3号線」を鹿児島から門司まで北上し、その地に起こった近代史を追いかけ、抵抗の民衆史を繙く、「道行」の書。森元斎著『国道3号線 抵抗の民衆史』(共和国、2020年8月)を読む。

 西南戦争、水俣病、山鹿コミューン、炭鉱争議と「サークル村」、沖仲仕と米騒動と続く、国道3号線の痛快な歴史の旅に誘われて、長距離トラックに飛び乗り、駆け抜けるように一気に読了した。

 「やられたらやり返せ」「なぜ「こう」なのか、を問い、そして行動せよ」と鼓舞する文体は、ちょっとアナキスト風。多くの資料を自らの身体の中でしっかりと読み解き、自分の言葉で書く、若干37歳の著者。次作が待たれる書き手だ。

 2014年、下平尾直が立ち上げた出版社「共和国」の刊行。近くの本屋で取次ではなく、Trans View(取引代行)で購入する。もう2刷が出たという。他にも高見順『いやな感じ』、池田浩士『抵抗者たち 反ナチス運動の記録』(増補新版)、藤原辰史『ナチスのキッチン』『食べること考えること』なども出版している。読みたいな。

 明治政府の強引な「近代化」に異議申立て、1873年、下野した西郷隆盛の「明治6年の政変」に続く、1877年の西南戦争。その中に、薩摩軍に参加し、26歳の若さで政府軍の銃弾に倒れた熊本県荒尾出身の宮崎八郎がいた。東京で自由民権運動を中江兆民に学び、1875年、友人たちと「植木学校」を設立。モンテスキュー『法の精神』、ルソー『社会契約論』を講義。1877年、植木学校で学んだ者たちが、村の農民1万人を山鹿の「光専寺」に集めて人民集会を開き、自ら民政官を選ぶという、自主自立の自治空間「山鹿コミューン」を誕生させた。だが、その2日後、西南戦争が勃発。宮崎八郎たちは「協同隊」を立ち上げ、西郷軍を支援し、山鹿コミューンを守り続けたが、田原坂の敗退後、山鹿もまた政府軍の手に落ち、コミューンは、わずか52日間の、ひとときの夢を閉じた。

 宮崎八郎の弟・宮崎滔天は1911年の辛亥革命を率いる孫文を支えた革命家としても知られる。


 「怨」の旗印を掲げ、海を破壊し、民を殺したチッソに、行政に、国に、異議を申し立てる水俣の漁民たち。彼らに悶え加勢して書いた石牟礼道子の『苦海浄土』。その文体を、森元斎はイギリスの哲学者・ホワイトヘッドの言葉、「抱握」を用いて、「目に見えないものを感じ、溢れる言葉として、把握ではなく、抱握する表現」と評する。

 近刊の米本浩二著『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社、2020年10月)もまた、「抱握」をそのまま言葉にした書物のようだ。作家・池澤夏樹の書評が、とてもいい(毎日新聞、11月28日付)。この本もまた読まなくちゃ。

 急速な近代化、強引な資本主義には、抵抗運動が必ず起こる。大牟田の三井三池炭鉱では戦後最大規模の労働争議が1953年、1959年~1960年にかけて闘われた。そのさなか、1958年9月、国道3号線沿いの福岡県中間市に自立共同体「サークル村」が生まれる。谷川雁、上野英信、森崎和江、炭鉱労働者らによる、闘う文学集団の誕生だ。評論集「原点は存在する」「工作者宣言」を書き、「連帯を求めて孤立を恐れず」とアジる谷川雁の言葉は、のちに全共闘の合い言葉にもなった。1963年、彼は大正炭鉱退職者同盟を組織し、政党や労働組合からも自立したラディカルでユニークな「大正行動隊」闘争を成功裏に導く。

 だがしかし、「サークル村」の男たちの言説に、ちょっと違和感を覚えて同人の女たちの文体を読むと、なんと胸にストンと落ちる言葉なのかと思う。1959年、女性同人誌「無名通信」を立ち上げた森崎和江の『まっくら 女坑夫からの聞き書き』『第三の性 はるかなるエロス』はもちろんのこと、中村きい子の、つれあいを刀のひとふりの重さもない男と見限って70歳で離婚した没落士族の娘の一代記を描いた『女と刀』。そして石牟礼道子は、高群逸枝の本を読み、彼女を訪ねて、しばし世田谷の「森の家」に滞在する。言葉にならない、もどかしい思いと女の言葉の真の在り処を求めて、その「あわい(間)」の中から、やがて「もうひとつのこの世」という、石牟礼道子の魂の世界へとたどりつく。

 国道3号線の最終地点は門司だ。若松や門司港には、中国大陸や朝鮮半島から常にヒト・モノ・カネが行き来してきた。そうだ、九州と東アジアはつながっているんだ。

 1918年7月、富山県魚津の主婦たちが声を上げた米騒動は瞬く間に各地に飛び火し、全国で25000人を超える人々が検挙され、770人が起訴された。起訴された人々のうち、福岡県内は580人を数え、国内でも最多。「とりわけ北九州の沖仲仕と筑豊炭田の坑夫たちがその大部分を占め、賃金値上げと待遇改善要求が、米の値下げに重ねられた点が、全国的な米騒動と質を異にしていた」という(林えいだい『北九州の米騒動』より)。

 さらに1931年、若松港で沖仲仕たちのストライキが起こる。指揮をしたのは『麦と兵隊』『土と兵隊』などで知られる火野葦平。彼は、人夫出し業者「玉井組」の親方である父親の跡を継ぐため、早稲田大学を中退後、若松に戻ってきていた。そのストライキの応援に東京からやってきた労働組合全国協議会オルグの中村勉は、火野葦平の妹・秀子と恋仲となり、結婚。そして生まれたのが、昨年、2019年12月4日、アフガニスタン東部ジャララバードで銃撃され亡くなった、NGO「ペシャワール会」現地代表の医師・中村哲さんだ。1983年、「ペシャワール会」の発足を呼びかけて京都YWCAで講演された時の、中村哲さんの訥々としたお話ぶりを、私も昨日のことのように思い出す。


 そしてこの本の論外に、もう一人、国道3号線沿い、福岡県八女市出身の五木寛之を加えたい。大河小説『青春の門』は第1部「筑豊編」(講談社、1970年)に始まり、「自立篇」「放浪篇」「堕落篇」「望郷篇」「再起篇」と続いて、第7部『青春の門 挑戦篇・下』(1993年)が、著者自身からサインをいただいて、今、手元にある。『さらばモスクワ愚連隊』(1967年)、『風に吹かれて』(1968年)以来のファンとして、戦後の暗く猥雑な時代背景をバックに主人公・伊吹信介が駆け抜ける壮大なBildungsroman(教養小説)を再読、一気に読み終えた。

 1993年、京都の女の企画会社「フェミネット企画」が企画した京都府主催「あけぼのフェスティバル」に、五木寛之さんをぜひお呼びしたいと、心を込めてラブレターを書いたら、思いがけず、受けてくださった。京都国際会議場にいっぱいの人を迎えて講演のタイトルは「暗愁」。時雨まじりの晩秋の京都にぴったりのお話だった。バーバリーのレインコートを手にした五木寛之さんを楽屋までお連れしながら、『内灘夫人』の霧子のことを話す私に、じっと耳を傾けてくださったことが、とってもうれしい思い出の一つ。

 何だか理不尽なことばかりのこの世。なぜ「こう」なのかを、きちんと問う姿勢をもつべきではないかと、しきりに思うこの頃。みんなが「その地」で問い続けていけば、少しは、この世も変わるかもしれないな。ささやかに私も、その一人でありたいと願いつつ。