東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長の辞任は、内外の世論に圧された結果だった。
 当初、森発言が報道されたときには、「またか」「やっぱり」という無力感が支配したことdだろう。本人も周囲も事態を甘く見ていたに違いない。「失言」を取り消し、「謝罪」すればかんたんに幕引きできると予想し、周囲は留任を求めた。何が悪いか少しもわかっていないことが伝わる「謝罪会見」が火に油を注ぎ、引っ込みがつかなくなった。国際オリンピック委員会(IOC)も途中で態度を変えた。この辞任を「外圧」のせいと指摘するひともいるが、それだけではない。若い女性たちが始めた、森辞任を求めるchange.orgの署名はあっというまに15万筆を集めた。
 森発言の問題は第1に「女性のいる会議は長い」というジェンダーのステレオタイプにある。会議が長いか短いかは女性の参加に関係ない。仮にそれが森さんの経験した事実だったとしても、第二に、「会議が長い」ことの何が悪いかという問題がある。会議は合議システム、民主主義とは合意形成コストが高くつく手続きなのだ。この発言は、かえってそれまで森さんが経験してきた会議が、忖度と根回しで短時間で済んできただろうことを推測させる。森さんが根回しで後任人事を決めたことが批判されたのも、ご本人が何が問題かをわかっていないことを浮き彫りにした。第三に「うちの女性理事はわきまえていらっしゃる」という発言は、あきらかに女性に対する発言の抑止効果がある。彼はそこで女性に「わきまえろよ」と威圧したことになるのだ。
 このことばを逆手にとって「#わきまえない女」がSNS上で拡がった。誰が言い始めたか、うまいことをいうものだ、と感心した。女の頭数がどれだけ増えても、「わきまえる女」ばかりでは、組織文化は変わらない。「#わきまえない女」の発言のなかに、自分にも「わきまえ癖」がついていた、というものがあって、胸を衝かれた。こういうことは、痛みを伴わずには言えない。
 その場にいた理事の多くが笑った、ということも問題視された。沈黙は暗黙の同意、笑いは同調と加担である。ラグビー協会初の女性理事で森発言を「私のことだ」と応じた稲沢裕子さんは、「私も笑う側でした」と反省する。「男の中で女ひとり、笑うしかなかった」という稲沢さんのことばには、多くの女性が苦い記憶を甦らせただろう。
 今回の発言は、森さん個人の性差別的な資質だけでなく、笑いで同調した組織委の組織文化、そして多くのアスリートが沈黙を守ったスポーツ界の政治と利権まみれの体質をあぶりだした。それだけではない。多くの女性が、自分たちの足元にも「あるある」と感じたことが、怒りの裾野を広げた。そして年長の世代の女たちが、「こんなことは自分の世代で終わりにしたい、次の世代に引き継ぎたくない」と言い出したことは、画期的な変化だった。
 女が「わきまえ」て、「ガマン」してきたことが、森さん的な女性差別を再生産してきた。沈黙は同意、笑いは共犯。そう、そのとき、あなたも共犯者なのだ。その時、その場でイエローカードを出すことが必要だ。そして残念なことに女が出すイエローカードより男が出すイエローカードの方が、男には効果があるようだ。男にも女にも共犯者になってほしくないが、わけても男性には傍観者になってもらいたくない。
(京都新聞2021年3月7日付けコラム「天眼」より新聞社の許可を得て転載)