久しぶりの読書会で、「100分de名著」ボーヴォワール『老い』(上野千鶴子・NHKテキスト、2021年7月)を読む。 「年齢に抗わない」「ひるむことなく、堂々と老いさらばえよ!」と、上野さんはボーヴォワールの『老い』上・下2巻を読み解き、胸のすくタンカを切る。ああ、スッキリした。

 62歳のボーヴォワールが『老い』を書いたのは、「老いは文明のスキャンダル(言語道断な事実)である」ことを、あらゆる角度から膨大な文献を繙き、「実存主義、つまり現実存在から出発し、それを本質存在に先立つものとしてとらえ、自由の道を発見していこうとする立場から分析したもの」と、上野さんは解説する。本書が書かれた1970年当時、フランスの高齢化率は12%、日本は今、高齢化率25%を超えている。

 そんな時代に、「自由とは何かを考え続けてきたボーヴォワールが、今、生きていたら、わたしは『実存主義のいう自由のなかに、死の自己決定は含まれますか』と聞いてみたい。おそらく彼女は『ノン』と答えると思います」。「老いを老いとして引き受ければいい。それを阻もうとする規範、抑圧、価値観が何であるかを、ボーヴォワールの『老い』は、わたしたちに示してくれます」と上野さんは書く。まさしく「老いという冒険を生きる」ということなのだ。


 1966年、サルトルと・ボーヴォワールは、人文書院と慶応義塾大学の招きで日本にやってきた。大学生だった私は、ボーイフレンドに誘われて京都会館での講演会に出かけた。会場に長蛇の列が延々と続く、あまりの参加者の多さにびっくりしてしまい、講演の中身は何も覚えていない。

 2005年、フランス・パリへ旅した時は、ボーヴォワールとサルトルがともに眠るモンパルナスの墓地を訪ねた。だけど、おかしいな、「必然の愛」と「偶然の愛」の両方をそれぞれ実践する、自由な、婚姻によらないパートナー関係を結んでいた二人が、なぜ同じ墓に入ったのかなと、その時は首を傾げる思いもしたけれど。

 徹底したリアリストとして自由を求め、「人間とは何か」を問い続けてきたボーヴォワールは、1986年、78歳で逝去。あ、もうすぐ私も、その歳になるんだ。けれど今も、こんなすばらしい本を読めることが、とってもうれしい。

 もう一人、びっくりして読んだ対談がある。「90歳、ひとり暮らしの危機『転んで寝たきりになっても、<終わり>とは思わなかった』」(澤地久枝×上野千鶴子)(『婦人公論』2021年6月22日号)。

 昨年5月、澤地さんは腰椎圧迫骨折でベッドから起き上がることもできず、寝たきりの状態になった。だけど医者は呼ばなかったという。

 澤地「90になってごらんなさい。もう死ぬのは怖くないのよ。いつ終わるかわからない人生だと思っているから、お医者さんにかかるという気はないの」。上野「あのですね、今の時代、そう簡単に死ねないんですよ」。澤地「あらぁ、困ったわね。でも、こんなに長生きするとは思っていなかったから、すでにおまけの人生です」。

 さすがの上野さんも、澤地さんに比べたら「常識人」のように見える。澤地さんは介護保険の使い方をよく知らず、やっとケアマネさんにつながって介護保険のよさを知ったという。そして要介護4から要介護2までに回復。1年後には沖縄まで飛行機で出かけたと聞いて、「ええぇっっ!骨折から1年経たずして?」と上野さんもびっくり。

 「人それぞれ、選んでよいのではないかしら。この先、私に何かが起きたら、自分の意思で食べなくなるでしょう。もちろん誰にも言わずに」という澤地さんに、「こういう人には勝てません。ここまで潔い方の生き方は、普通の人の参考にはならないですね。きっと澤地さん、この先、まだまだ死ねませんよ。まさに不死鳥です」と上野さんは笑って答える。そんなふうに老いて死んでいけたら、いいなあ。

 97歳と9カ月で、母が亡くなって1カ月。時の経つのは速いが、その間の何と忙しいことか。そして母が亡くなって思うこと。「ああ、生と死は一人ひとり、異なるものなんだ」と実感する。母の生と私の生き方は違ってあたりまえだけど、死もまた、それぞれなのだろう。それも自分で選べるものでもないし、この先、ボケてしまったとしても、まあいいか。その時は誰かに「お願いね。お任せします」と、今は思っているけれど。

 それにしても人が亡くなった後の手続きはややこしい。役所への届出は全部、1週間以内に済ませたが、熊本の母の家の相続と少しばかりの金融資産の残高証明のために書類が必要なのだ。一人娘の私が相続人なので、ややこしいことはないのだが、母が生まれてから死ぬまでの全部の戸籍謄本、生まれて結婚して北京に行き、そこで私を産んで、帰国。その後、私の結婚による除籍などが書かれているものを。

 熊本市役所のホームページからダウンロードした戸籍関係請求書を見ると、「筆頭者」の欄は、もう50年以上も前に57歳で亡くなった私の父の名前を書くのだという。一体、どこまで男系主義なのか。

 3年前、母と叔母を京都に呼び寄せ、今も元気にしている94歳の叔母の熊本の家は、西南戦争も潜り抜けた築150年以上の古い家。5年前の熊本地震にも壊れず、まだそのままに置いてある。あれこれ書類を整理していたら、たまたま古い家系図や謄本、祖父の遺言書や見合い写真が出てきた。

 遊び人だった祖父はカンカン帽を被り、斜に構えた見合い写真の裏に「この夏は、暑さ六分で四分(渋)うちわ」と俳句を詠んでいる。道楽が過ぎて身上を潰した人だったけど、和紙にしたためた遺言には「90年に近い生涯を終わるにあたり、一筆書き残す」とあり、自らの半生と4人の子どもたちへの別れの言葉が書かれていた。

 そして出てきた古い除籍謄本を見て、もうびっくり。本籍の欄に「前戸主」の名前があり、横には「士族」、入籍した妻の出自には「平民」と、身分を示す「族称」が書かれていた。しかも発行年は昭和46年(1971年)。いくら親族が申請した謄本といえども、「一体、いつの時代?」と愕然とした。

 1871年(明治4年)、明治維新政府は太政官布告「解放令」を出す。近世身分制度をなくして、法律・制度上は差別はなくなったはずだった。しかし翌1872年(明治5年)、「壬申戸籍」がつくられ、家柄を示す族称欄が残る。

 その後の改正等を経ても、戸籍法では従前戸籍の公開が原則だったため、興信所等が他人の戸籍簿を閲覧するなど、結婚や就職差別は後を絶たなかった。1967年、大阪朝日新聞「声欄」への投書がきっかけとなり、1968年(昭和43年)、「壬申戸籍」の廃止へとつながる。「壬申戸籍」は法務局に包装封印され、厳重に保管されることになった。

 1965年、同和対策審議会答申、1969年の同和対策事業特別措置法制定後も、1975年、「部落地名総鑑」事件が発覚するなど、部落差別は解消されることなく、「明治百年」は「差別の百年」とする部落解放同盟による差別糾弾闘争が、燎原の火の如く、全国に広がっていった。しかし今なお、差別はなくなったとはいえない。

 戸籍制度は日本と台湾にあるだけだという。台湾では現在、実質化していない。ではなぜ日本にだけ、男系中心主義と身分制度を孕む戸籍が、今なお存在するのか。天皇制がある限り、払拭できないのだろうか。だけど天皇には戸籍はないんだけど。

 ほんとに戸籍なんて、いらない!

 政局もオリンピックもコロナ禍も、梅雨空のお天気さえも、鬱陶しいことばかり。せめて好きな本でも読んで時を過ごすしかないかと思いつつ、元気でいなければと、よく食べ、よく眠る日々を送る。

 中国には「民は食をもって天となす」(民以食為天)という孟子の言葉がある。「民が食べられない状態になれば蜂起するのは当然」との意味もあると。まさに日本は今こそ、蜂起する時ではないかと思うのだが。