夜のNHKラジオ「マンスリーブックレビュー」で翻訳家・岸本佐知子さん紹介の、村田喜代子著『エリザベスの友達』(新潮社、2018年)を買って読む。本書の解説「いつかみんな、自由になる」を岸本佐知子さん自身が書いている。

 著者の村田喜代子さんは1987年、『鍋の中』で芥川賞受賞。つい最近、10月12日、『姉の島』で泉鏡花文学賞を受賞。1945年(昭和20年)生まれの、私と同世代の作家だ。

 帯には「97歳、認知症の初音さんはいま、天津租界での夢のような日々を再び生きる」とある。

 ああ、初音さんは6月に亡くなった私の母と同い年だ。若い日、中国で過ごした体験も同じ。母が亡くなって涙一つこぼれなかったのに、なぜかこの本を読み、胸に響いて、涙がひとしずくこぼれ落ちた。

 初音さんは大正生まれ。福岡県香椎で育ち、結婚して大陸に渡り、天津租界に暮らす。今は介護付有料老人ホーム「ひかりの里」に住み、ベッドのそばの写真立てには「天津時代の、ロングスカートを穿いて花飾りの帽子をかぶったモダンガールみたいな初音さん」が写っている。敗戦後、天津で生まれた六歳の長女・満洲美を連れて日本に引き揚げ、戦後、妹の千里が生まれたという設定。ホームの個室には「天野初音」の表札が掛かる。両隣の部屋の「土倉牛枝」さんと「宇美乙女」さんは、ともに旧「満洲」からの引揚げ者だ。

 みんな呆けて、日々、見えないものが見えたり、いないものがいると言ったりする。それを大橋看護師が、「そんなもの、いないと言ってはいけないのよ。眼に見えてるものはいるのよ。ここには何でもいるんです。あたくしたちはそれをどんどんやっつけちゃうの。スーパーマンよ」とカッコよく言う。

 1943年(昭和18年)、20歳の身重の母が人力車に乗って北京の「天壇」まで出かけ、ワンピース姿で阿媽(アマ、中国人のメイドさん)といっしょに撮った写真がある。北京・王府井と東単の間の胡同(フートン)に面した四合院の、日溜まりの中庭を囲んで何軒かの家族が暮らしていた。

「胡同の四合院中庭で洗濯物を干す日本人女性」(「カメラが写した80年前の中国―京都大学人文科学研究所所蔵華北交通写真展」2019年4月)の1枚の写真が、若い時の母と重なる。(https://wan.or.jp/article/show/8377)

 弁髪にチャイナ服の先生が自宅に中国語を教えにきてくれたという。後に1990年、蘇州大学に1年間、留学した娘も、母の「四声」(マーマーマーマ)の発音に感心するほどだった。

 戦時、日本占領下だった中国・北京で生まれた私。「昭和拾八年八月弐拾六日、中華民国北京市内壱區草厰胡同弐拾八号ニ於テ出生。北京総領事受付」と出生届にある。出産後、母は重い病気に罹り、敗戦前に、父に送られ、私をおぶって北京を発ち、満鉄に揺られて帰国した。もしも母が戦後の混乱期に帰国していたら、旧「満洲」からの引揚者と同様、苦労して帰ったことだろう。そして私も、もしかしたら「中国残留孤児」になって中国に残されていたかもしれない、と。

 中国との合弁会社で農業技師だった父が、中国の大人(タイジン)たちと並んで撮ったセピア色の写真がある。ひとたび仲良くなれば、どの国の人にも家族以上に親身になる中国の人たちのおかげで、敗戦後2年で帰国した父も、同僚の中国人に助けられ、無事に帰ってこられた。そして父は中国仕込みの麻雀が、ことのほか強かった。

 初音さんの時空を超えた夢まぼろしの世界が、カラー写真さながら天津租界を写し出す。

 夫から「おまえ」と呼ばれたことはなく、嫌なら「ノー」ということができたという夫との関係を生きてきた初音さん。

 ある日、娘の千里が初音さんに、天津租界の日本の女友だちと写した古い写真を見せる。「彼女たちの名前は?」「エヴァ」「ヴィヴィアン」「アンジェラ」「キャシィー」。初音さんの写真を指して「この人はいくつ?」「はたち」「お名前は?」「サラよ」と答える。

 もう一枚の写真がある。「自転車のサドルに手を掛けた痩身の中国人男性と、その横にジャーマンシェパードの鎖を握った断髪の女性」が立っている。「この人は?」「ヘンリー」。満洲美が「満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀じゃないの?」と聞き返す。「この女性は?」「エリザベス」「溥儀の正室の婉容でしょう?」。紫禁城を追われ、一時期、天津に滞在していた溥儀と婉容は自らを、そう呼んでいたという。後に溥儀は「満洲国」崩壊後、ソ連軍の捕虜となり、婉容は八路軍に捕えられ、最期はアヘン中毒で亡くなるのだが。

 後日、初音さんに、それらの写真をもう一度見せると、もう、すっかり名前を忘れてしまっているのだ。

 地元の市民コーラスグループ「みみそらコーラス」がホームに慰問にやってくる。「満洲娘」「アリラン」を、みんなで唱和する。リーダーが、童謡「クラリネットをこわしちゃった」の原曲、フランスの古い軍歌でナポレオン率いる皇帝親衛隊の行進歌「玉葱の歌」を歌うと、普段、静かな「先生」と呼ばれる老人が突然、立ち上がって朗々とフランス語で歌い出し、みんなが呆気にとられる場面が愉快だ。

 ある日、牛枝さんの部屋へ3頭の馬たちがやってくる。牛枝さんの田舎の家から戦地に供出され、死んでしまったり、置き去りにされた馬たち、ハヤトにナルオ、ミツルが、牛枝さんを誘いにやってきたのだ。「姉っさ、しばらくぶりでやんす。今日はとうとう、おめえさんを迎えにめえりやした。姉っさの寿命は終(し)めえのときがめえりやした。おれの背っこに乗っておくんなせ」「おうおう、ちょっと待ってくれろ」。牛枝さんはベッドの上に起き上がると栗毛の手綱を掴んでヨイショッと馬の背に乗る。そうして牛枝さんは馬たちとともに、あちらの世界へと旅立っていった。

 私の父は戦後、帰国して大阪南部・淡輪で山を開墾し、牧場を開いた。満蒙開拓団帰りの長野県の人たちといっしょに。在日朝鮮人の人たちも協力してくれたという。満天の星空の下、ドラム缶のお風呂に入り、搾りたての牛や山羊の乳を飲んで、私は大きくなった。

 母は戦後まもなくの頃、進駐軍放出物資のサーキュラースカートを穿いて、毎週、私を連れて南海電車に乗り、難波のスバル座へハリウッド映画を見に出かけた。「慕情」「旅情」「カサブランカ」など、1950年代のアメリカ映画は総天然色。ジェニファー・ジョーンズ、キャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマン、ウィリアム・ホールデン、ハンフリー・ボガートと、俳優も美男美女揃い。まだ小学校に上がる前だった私は映画のあらすじがよくわからないから、「ねぇ、それ、なあに?」と隣に座る母に何度も聞いては、「黙ってなさい」と、よく叱られたものだった。

 音楽が好きな母は、いつも5球スーパーラジオでNHK「音楽の泉」でクラシック音楽を聴きながら家事をしていた。母が亡くなった日、病院でのリモート面会で、曾孫が弾くモーツアルト「ソナタ」8番第1楽章の録画をスマホで聴かせると、「あんたも、この曲、弾いたわね」といったのが最期の会話となった。

 歳をとれば、誰も、みんな自由になる。「認知症」は人を自由にしてくれるのかもしれない。でも母は若い時から、歳をとって呆けてからも、ずーっと自由な人だったんだ。私も少しは母を見習わなければ、と思う。

 母は、きっと今も、あちらの世界で自由を謳歌しつつ、思いのままに自分を生きているのではないかと夢想しながら。