寂聴さん追悼

 瀬戸内寂聴さんが亡くなられた。享年99歳。あとちょっとで100歳だった。
 だが長生きしたばかりに、それより前に死んでいれば経験しないですんだはずの東日本大震災にも遭遇した、と嘆かれた。仙台にある天台寺の住職として東北にもなじみのあった寂聴さんは、震災後、ただちに被災地へ入られた。家を失い、しごとを失い、家族を失った被災者を前にして、足がすくんだ、と正直におっしゃった。3.11以後の日本を考えるために『ニッポンが変わる 女が変える』(中央公論社、2013年/文庫版、2013年)という対談集でお相手をお願いしたとき、寂聴さんにこう言った。
「来世を信じていらっしゃるなら、被災地の人たちに『あの世でお子さんや親御さんや配偶者が待っておられます』と伝えることができますね」
 寂聴さんには「あの世で会えますよ」のひと言が言えますが、元クリスチャンの棄教徒で、世俗的な社会学者である「わたしには言えません」と。
 寂聴さんはわたしに、思いがけないことを言われた。得度したときには来世を信じていなかったと。信じるようになったのは「10年くらいまえから」だと。対談は2012年だから90歳近くなってから気持ちが変わられたことになる。得度は53歳、いかにも若い。得度式の映像を見ると肌にも張りがある。この年齢で「この世のことはすべて見つ」という気分になられたとは信じがたい。同じような年齢のころには、わたしは煩悩のかたまりだった。
 「出家」とはおもしろい言葉だ。「家を出」たら世に身をさらすことになる。「遁世」どころか、寂聴さんはこんなことまで、と思われるようなさまざまな要請に身を挺して応えられた。その寂聴さんは「生き残ったのだから余生を『脱原発』に捧げる」と書いておられる。2012年には脱原発を求めて、ハンガーストライキに参加された。すでにご高齢だったから、いのちがけだったと思う。
 その後も2015年安倍政権の安全保障関連法制反対の国会前抗議行動にも積極的に参加された。あのころ、寂聴さんはすでに90代、同じように行動に参加された大江健三郎さんは80代。「アベ政治を許さない」という力強い文字を金子兜太さんに揮毫してもらうという仕掛けをつくった澤地久枝さんも80代。そういう年長の世代の姿を見て、まだ60代だったわたしはこう思ったものだ。
 オネエさま、オニイさま方、どうぞ安心して引退なさってください、あとはわたしたち後輩がお引き受けしますから…と言えない自分がいる。ふがいない後輩でもうしわけない、すまないけれど、オネエさま、オニイさま方には、死ぬまでがんばっていただかなければ…と。
そのとおり寂聴さんは死ぬ間際まで発言し、行動を続けられた。見たくない現実もたくさん見られたことだろう。寂聴さんがその背を見て追いかけた田村俊子や岡本かの子、伊藤野枝のように、わたしたちもまた、寂聴さんの背を見て走りたい。

『不思議なクニの憲法』(2017年)のドキュメンタリーを制作した松井久子監督から、映画に収録しなかった部分の寂庵での瀬戸内さんのインタビュー映像(14分)を、WANに無償で提供していただきました。以下をごらんください。