久しぶりに娘と孫といっしょに、劇団四季ミュージカル「ロボット・イン・ザ・ガーデン」を見に行った。「ライオンキング」や「アナ雪」のようなポピュラーな演目ではないが、思いのほか、見てよかった。

 アンドロイドが人間に代わって家事や仕事を行う近未来のイギリス南部の田舎町。無職で無気力な「ダメンズ」のベンと優秀な弁護士の妻・エイミーは、毎日、喧嘩が絶えない。ある日、庭に、壊れかけのロボット「タング」が現れる。なぜか気が合うベンと「タング」に愛想をつかし、エイミーはとうとう家を出ていく。

 ベンは、「タング」のシリンダー漏れの故障を治してやろうと、「タング」をつくった持ち主を探しに、二人で旅に出る。

 まずは、ロボットのロゴを頼りにアメリカのカリフォルニア、マイクロシステムズ社員のコーリーを訪ねて。彼にNASAの女性技術者リジーを紹介されて、ヒューストンへ。さらに彼女の友人、AIコンサルタントのカトウが事情を知っていると聞いて、日本の秋葉原へ。カトウは、元上司のボリンジャーが「タング」をつくったと伝え、なぜ彼のもとを離れたかという秘密を語ろうとはしない。

 ベンは、カトウの反対を押し切って、はるかミクロネシアのパラオへ飛び、「タング」をつくったアンドロイド研究者・ボリンジャーを遂に探しあてる。しかし、そこで目にしたものは、人間の科学技術の行き着く先、ディストピアの世界だった。

 原作のデボラ・インストール著『ロボット・イン・ザ・ガーデン』(松原葉子・訳、小学館、2016年)を読む。ボリンジャーは、ベンに言う。

 「我々が開発しようとしているのは、無機化学物から生体をつくりだす技術だった。現在、家庭などで使われているアンドロイドなんぞ、私が作り出せるものの足元に及ばない。我々は、チタンなどの頑強な体と新しい学習機構をもつ、実験アンドロイドを作ろうとしていた。ほとんど生きているような、だが、生きてはいないアンドロイド。人間の脳に極めて類似したものを持つはずだった。むろん人間とは違うが、学習はする。筋肉記憶や痛覚も持つ。自ら成長することも・・・変化することもできる」
 「それらの “実験アンドロイド”は、何をするためのものだったんですか?」
 「目指したのは地雷除去から長時間の外科手術、はては最前線の戦闘まで、あらゆることが可能なアンドロイドだ」

 つまり、この研究は、ゆくゆくは軍事技術に、核戦争に転用されるということなのだ。今、まさに世界で起こりつつある出来事のように。

 「タング」のシリンダー漏れの液はサラダ油でいいことがわかった。「タング」の故障が治った後、ボリンジャーに閉じ込められそうになった二人は、「タング」の機転で、危機一髪、島から脱出。輸送船の船底にもぐり込み、海を渡ってイギリスの我が家に戻ってきた。そして二人の旅は終わる。

 長い、長い旅の間に、人には、とっても大切なことがあると気づいたベンとエイミーと「タング」の三人は、やがて一つの家族となり、ハッピーエンドを迎えることになる。めでたし、めでたし。息をのんで舞台を見ていた私たちも、ホッと一安心。

 けれども、現実はどうか。今やVR(仮想現実)、AR(拡張現実)、MR(複合現実)の世界が、すでに始まっている。アンドロイドが人間に代わってエッセンシャルワークをするようになれば、もう人間なんて、いらなくなるのではないか、と。



 ディストピア小説の系譜は、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)が、ジョージ・オーウェル著『1984年』(1949年)とよく比較されるが、ハックスリーの『島』(1962年)もまた、ある意味、ディストピア小説ではないか、とも思う。

 1960年代前半、大学1回生の英語の授業で、ジョージ・オーウェルの『動物農場』(1945年)と『1984年』(1949年)の抜粋を英文で読まされたことがある。もう怖くて、怖くて、夜、夢にまで出てくる。独裁者が登場し、恐怖政治へと変貌していくさまが描かれ、思想改造のための拷問の描写など、「もういやだ」と思った。

 今回、『1984年』(高橋和久・訳、早川書房、2009年)を文庫本で再読して、またあの時の恐怖が蘇ってきた。今まさに、そんな時代がきているような気がしたからだ。

 書かれた時代が時代なのだ。1941年~1945年、第二次世界大戦。1947年、トルーマン米大統領の反ソ反共政策の提唱と冷戦時代の幕開け。1949年、中華人民共和国成立(『1984年』出版)。1950年、朝鮮戦争勃発(オーウェル死去)。1953年、スターリン死去。1959年、キューバ革命。1961年、ベルリンの壁・ドイツ東西分断。1962年、キューバ危機(『島』出版)。1963年、ケネディ暗殺の時は大学のコンパの帰り道で、もうびっくり。そして1984年、Apple社がMacintoshを発表というのも、何か符号するものがあるのだろうか?

 『1984年』の出版から73年がたつ。主人公のウィンストン・スミスは、オセアニア真理省の記録局に勤務し、「過去の歴史の改ざん」を担当する。あることから絶対者「ビッグ・ブラザー」(モデルはスターリン)率いる党への疑問が芽生えて、テレスクリーン(全方位監視カメラ)から見えないところで密かに日記をつける「重大な犯罪行為」に手を染めることになる。

 真理省の高級官僚オブライエンは、「二重思考」を巧みに駆使して、秘密結社『兄弟同盟』の一員と名乗り、スミスに近づき、エマニュエル・ゴールドスタイン(モデルはトロツキー)が書いた禁書を手渡す。

 そこには党の三つのスローガン「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」を、「フロール」(声なき大衆)に対して、「もう一つの真実」として洗脳していく方策が詳しく書かれてあった。

 やがてウィンストン・スミスは密告者によって捕らえられ、「101号室」で、思想的、身体的拷問を受ける。この場面がほんとに恐い。そして最後は、辛い「ディストピア」な結末に終わるというSF未来小説だ。

 しかしこれは決して過去の物語ではない。オーウェルが予見した世界は、想定された1984年から40年近くなる今、着実に、急速に進みつつある現実なのではないか。

 テレスクリーンのようなGPS個人識別データで国民を管理するシステムは、ますます精緻となり、SNSの情報操作は、フェイクニュースを含めて、人々を、いともたやすく洗脳してゆく。人々が、リテラシーを獲得する余裕もなく。

 人類の進歩は、果たしてユートピアだったのか? それともディストピアだったのだろうか? その答えは否応なく人類が出さざるをえないのだけれど、人間を信じて、あるべき答えを待つしか、方法はないのだろうか、と思う。

 でもどうか、何があっても、「人々が、互いに争いを行使することが起こりませんように」と、今はただ、心の底から、そう願うだけ。