女性学講座 エッセイ

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フェミニズムの申し子として 第10巻『女性史・ジェンダー史』 豊田真穂

2010.10.12 Tue

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わたしはだれ? どこから来たの?

「新編 日本のフェミニズム」第10巻『女性史・ジェンダー史』は、この問いからはじまる。冒頭の「解説」で、編者の加納実紀代さんは「この問いの中から、女性史は生まれた」と言う。

自分はいったい何者であるのかという問いは、女性を取り巻く状況にいらだち、生きにくさを感じる中で、生まれる。自分らしくありたいのに、「あなたは女の子だから」と言われる。なぜ、わたしは「わたし」として認められないのか。なぜ、女であるというだけで、こんなにも扱いが違うのか。自分が女であることをのろいたいというような「女であることの痛覚」を抱える女性は、その答えをもとめて過去をふり返る。そして、こうした作業の積み重ねが、女性史となる。

現在の痛覚に根ざして過去を問う女性史には、未来への願いが込められている。
だとすれば女性史は、フェミニズムの申し子である。というよりはフェミニズムそのものである。

女性史は、フェミニズムそのものであるとは、どういうことだろうか。欧米では、1960-70年代に巻き起こった第二波フェミニズムの運動とともに、女性史が誕生している。アメリカ女性史研究の第一人者、有賀夏紀さんによれば、アメリカの女性史研究は第二波フェミニズムの展開と密接に関連しており(序章『アメリカ・ジェンダー史研究入門』p.2-3)、これはまさに女性史がフェミニズムから生まれたということだ。

しかし、日本の状況はちょっと違うようだ。というのも、1994年刊行の旧版「日本のフェミニズム」シリーズは、1970年以降の日本の第二波フェミニズムが生み出した思想や研究を集めた「フェミニズム選集」であったのにもかかわらず、『女性史・ジェンダー史』が含まれていないのだ。『女性史・ジェンダー史』は、『グローバリゼーション』とともに、変化する時代の流れに応じた新しい分野として、2008年に刊行された「新編 日本のフェミニズム」シリーズに、新たに加えられた。

旧版「日本のフェミニズム」に『女性史・ジェンダー史』がなかった理由は、旧版発刊の時点では、女性史は「日本の第二波フェミニズム」が達成したものとは見なされていなかったからだと考えられる。なぜなら1960年代には、日本の女性史研究は、すでに厚みのある実績が蓄積されていた。実際、1966年には学会誌『歴史評論』に「女性史」特集が組まれている。第二波フェミニズムがアメリカの女性史を生んだ状況とは異なり、日本の女性史は、1970年のリブ誕生よりずっと以前から、女性たちによって培われていたのである。しかし、その厚みゆえに、日本の女性史は、リブ/フェミニズムと出会い損ねてしまった、と加納さんは指摘している。

日本の女性史は、厳密な文献実証主義に基づく「科学的歴史学」の枠内で発展した。一方、リブ/フェミニズムは、「科学的」とされる知の体系そのものが、じつは「男仕立て」であることを看破し、男の論理に対抗して「女の論理」や「女の言葉」を求めた。ところが、いざ自分の言葉で語ろうとすると、その言葉はすでに男仕込みの意味や論理で汚染されている。それゆえリブは、「言葉にならない」という悩みを抱えた。もがき苦しんで吐き出した言葉は、外部からは「稚拙」で「スキャンダラス」で「暴力的」で「下品」なものにうつった。女性史家たちはリブに対し冷たい反応しかできなかったのだ。

しかし、1990年代後半になってようやく女性史とリブ/フェミニズムは融合し、その後の研究の盛り上がりは、目を見張るものがある。まず、女性史研究のテーマが広がったこと。1990年代まで女性史が解明できなかった「慰安婦」問題は、すでにリブ運動の中で問題化されていた。このほかにも性と身体という課題や、戦争・植民地問題などが、女性史のテーマとして取りあげられるようになった。また、フェミニズムが発見した「ジェンダー」という概念を取り込んだことで女性史は新たな動きをみせ、ここから「ジェンダー史」という新しい学問領域も生まれた。まさに、女性史はフェミニズムそのものと言えよう。

ここで注意しなければならないのは、本書が「女性史はフェミニズムそのもの」というときの女性史は、1990年代後半以降にフェミニズムと融合した女性史のみを指すのではないということ。フェミニズムとしての女性史とは、男性中心のこれまでの歴史に女性がどのように貢献したのかといったことを書き加えるだけでなく、「科学的歴史学」そのものを問い直すものである。例えば、歴史学が「科学的」であるためにとられる文献実証主義は、文献への絶大なる信頼に基づいている。しかし、どのようなすぐれた文献でも、必ず一度は誰かの頭脳というフィルターをとおした情報である。いったい誰がこの資料をつくったのか、その意図はなにか、なぜその資料が残されているのか。こうした問いは、不問のままだ。また文献主義は、文献資料に記録されない出来事は「起こらなかったこと」になる。しかし女性たちは、文献資料に残されない多くの経験をしてきた。そこで女性史は、「聞き取り」(インタビュー)を実践してきた。「聞き取り」という実践は、まさに文献主義という「男の論理」への抵抗であり、その意味で、フェミニズムそのものなのだ。

本書は、4部構成で、第1部がフェミニズムとしての女性史の方法論、第2部が無告の民への聞き取りを書き起こした「聞き書き」、第3・4部は、リブの問題提起を受けた新しい女性史の研究テーマである戦争や植民地支配の問題と、ジェンダー規範や性・身体の問題を取りあげている。どの文献にも凄みがあり、女性史のもつ生々しい迫力と重みをもって胸にひびいてくる。ぜひ、手にとって読んでもらいたい。








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