エッセイ

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母へのラストワード(女の選択 ⑦)  T子

2013.03.25 Mon

   女三代の雛人形

女三代の雛人形

 旧暦で雛祭りを祝うこの地域に、女三代の雛人形を飾る季節がやってきた。

 一番大きくあでやかな雛の主は私の娘、その次の慎ましやかな雛と土雛の2対の主は私、そして一番小さく古びた雛の主は私の母である。

 ふだんはひっそりと静かな古い家も、雛人形が鎮座すると華やかな雰囲気が漂ってくる。

   私の土雛

私の土雛

 忙しく働いていた頃は習慣として飾っていたにすぎなかったが、たっぷりと時間がある今年はそれぞれを眺めながら飾っていると、およそ30年ずつ時代の差がある雛は全く異なった表情を浮かべていることに気が付く。

 雛人形はその主を守っているというが、冠を失い、髪も薄くなってしまった淋しげな表情の母の雛は、もう89年近く母を守ってきたことになる。

 しかし、その母はもうこの家にはいない。

  母が住み慣れた家を離れたのは3年前の早春だった。

 今は穏やかに市内のグループホームで暮らしている母の様子が大きく変調したのは、父が亡くなってからだった。それ以前から足腰が弱り、時々うつ状態も見られた母だったが、11年前に父が亡くなった途端、急に認知症が進み、下半身の自由もきかなくなってしまった。それほど仲の良い夫婦ではなかったとはいえ、年老いてから伴侶を失うことは、大正生まれの女の典型のような母には想像以上に大きな喪失感があったのかもしれない。

 母の症状は次第に、しかし確実にまるでらせん階段を下るかのように悪化していった。同じことを何回も尋ねる母、入浴を拒む母、ベッドから起き上がれなくなる母、廊下を這う母、部屋を汚す母、・・・状況の凄まじさに私は涙がこぼれた。

 介護サービスを可能な限り利用し、1日に何回も訪問介護を依頼しながら、母の介護にあたった。だが、ハードな仕事を続けながら行うことに、私は心身ともに消耗してしまった。バリアフリーとは程遠い古い家で、動けない母が生活するのも限界だった。

 私が仕事を辞め、母の介護に専念することも一つの方法だったが、グループホームに空きが出たとき、「どこにいても同じだから・・・」と混濁と覚醒の狭間で、母は家を離れる選択をした。

 たぶん、私が仕事を辞め、母の介護に専念する姿が、認知症でありながらも母には想像できなかったのだろうと、今になって思う。私の子どもたちの世話をし、働き続けることを支えてくれた母らしい選択であった。

 母と私は全く似ていない親子である。

 私はこの人から本当に生まれてきたのだろうか・・・。思春期の頃そう疑うほど、外見も性格も違う。そして、専業主婦として父に従って生きてきた母と、働きながら自立を目指してきた私とは、歩んできた道も全く違い、私が母から影響を受けた体験や言葉もほとんど思い浮かばない。母に悩みを相談したり、心のうちを明かしたという記憶もなく、私は母が何を考えているのかわからないし、もしかしたらこの人は何も考えていないのではないかとすら思える時があった。

 反対に母からみれば、私は我が子ながら全く理解できない子どもだったと思われる。私が、働き続ける意味、私の苦悩あるいは喜びの意味が、おそらく母には理解できない。わかりあうことができないという点では母と私は不幸な親子でもあった。

 だが、そうかといっていがみ合ってきたわけではなく、大きな喧嘩をした記憶もない。確執もなければ、葛藤もない。実にシンプルな親子関係であったが、母は十分に私を愛し、慈しんで育ててくれたという思いはある。

 還暦と定年退職という節目を迎え、自分が様々な選択を重ね、生きてきた人生の意味を問う今、私の思いに共感し、理解してもらいたい人は、この世に送り出してくれた母と40年間をともに過ごした夫である。

 夫とは様々な確執もあったものの、まだ「余生」という時間があり、わずかながら未来がある。しかし、認知症が進んだ母と私の関係はもうラストがきてしまった。毎週訪れるグループホームで、私が語りかけても母は静かに頷いているだけで何の感情も示さない。

 だが、それも止むを得ない。大正の女と昭和の女・・・時代の違いは選択の幅の違いを生み、生き方も大きく変えた。理解されなかったものの、私は母に助けられ、自分の生き方を貫くことができた。これもひとつの女の連帯かもしれない。

  お母さん、ありがとう・・・頷くだけの母に、ラストワードを私はこれからも繰り返し語りかけていく。

 連載「女の選択」は、毎月25日に掲載の予定です。これまでの記事は、こちらからお読みになれます。

カテゴリー:女の選択

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