2011.11.28 Mon
共依存の母娘関係にDVをみる~信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(2008年、春秋社)、『一卵性母娘な関係』(主婦の友社、1997)の再読(2) 杵渕里果
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Ⅱ 『墓守娘』の、母・父・娘への処方箋~「娘」は主体性をみおとされる
『墓守娘』で提示される「処方箋」をみてみよう。
①〈母に対する処方箋〉。母親に、近代家族についての歴史的な概観や「共依存」などの言葉を与え、コントロールに自覚的にさせる。さらに、自己主張トレーニング(アサーティブトレーニング)により、娘に「あなたは摂食障害だと思います」など、娘の拒絶がこわくとも、明確な意見の提示をできるようにする。
②〈父に対する処方箋〉。まず、家族の関係にひとりむきあってきた妻をねぎらい、よく夫婦で話し合って娘への支援金額を決め、次に娘に要求額を提示させ、交渉し、妻と話した金額内で娘に援助するようにすすめる。
③娘に対しては、母への怒りをためらわず自覚し、母親に否定的な感情を抱く自分を受け止めること。そのときに感ずる「罪悪感」は、一生逃れられない必要経費とおもって、「罪悪感」とともに自立してゆくこと。母に怒りをぶつけ理解をもとめるのは断念し、それよりは提供されるものを「お断りする」「NOといってみる」ことを勧める。
しかし、と思う。一体、誰のための処方箋なのだろう。
『墓守娘』の娘たちは、成人し、働いているのだ。〈娘たちは…母親たちをどこかやさしく見守ったまま働き続けて三十歳を過ぎている/p87〉
少なくとも事例あがる娘たちに、ひきこもりやニートはひとりもいない。就職祝いにマンションを与えられた娘がいても、〈複雑な思いで/p50〉うけとったのであり、「マンションがほしい」と頼んだわけではない。
この母・父への〈処方箋〉から彷彿とするのは、摂食障害でやせ細った娘と、仕事一辺倒で家庭を顧みない夫の間で、孤軍奮闘する妻のすがただ。(『一卵性』のほうは、摂食障害の娘とその母に対するカウンセリング経験を土台に、健康な母娘関係を考察していた(i-p178)
この〈処方箋〉は、どうも、問題のある未成年の子、病態に陥った子をめぐる「機能不全家族」への対応策で、〈働き続けて三十歳を過ぎている〉、とりあえずも社会生活をつつがなく行っている娘は、まるで想定されてない。彼女が成人で勤労者でもあることが、「娘」という漢字でくくったとたん、ごく自然に等閑視されてしまったように感じられる。
・娘の「罪悪感」について
娘が母を拒絶するとき、必ず「罪悪感」を強く感じ、これは一生涯のがれられない必要経費なのだ、というが、それでは、娘というものは一生、母親から精神的に自立できない、と宣言しているようなものだ。
信田によると、こうした「罪悪感」は、「母は私がいなければどうにもならない」と思いたい、「母から愛される子でありたい」という「母性愛幻想」の内面化だと説明される。〈たぶん、墓守娘であるあなたたちは、母の愛を求めているのではなく、母に愛された私を確認したいのだ/p174〉
本文で紹介されるなかで、母と離れることに強い「罪悪感」を抱いているのは、たとえば、母娘ふたりDVから逃れて生き抜き、成人してからは年齢的に仕事も少ない母をみて、夜間大学に通って母を支えた、という娘だ。
結婚後しても娘と同居したがる母を拒むと、母がうつ病になり、それで「罪悪感」を感じるようになる。でも母娘関係の混濁にきづき、母と距離を置くようにしはじめると、とたんに母が〈妖怪のように/p37〉見えてくる。
この「罪悪感」は、まだ若く社会的な自由度も高いじぶんが、それより弱者の中高年の母親を“置き去り”にし、心理的なショックを与えることに「罪悪感」にみえるし、いわゆる「孝行したい時に親はなし」云々の儒教的価値観の内面化ともうけとれる。
また、「共依存」といっても、心理的なコミットの深い浅い、相手に依存する部分は様々だろう。たとえば、酒乱の夫に「私がいなければ」と献身的に仕える妻もいれば、夫にうんざりしながらも経済的に依存しているため離れられない妻もいる。
十代のころから教育ママぶりに〈薄気味悪いものを感じ/p26〉はじめ、就職後も母と同居をよぎなくされている娘は、夜中に「ふっと母を殺したくなっちゃう自分がいて」と泣く。この娘に、母に愛されたい「母性愛幻想」があるとは思えない。
信田が事例でくわしく描く娘たちは、それぞれの複雑な葛藤を伝えてくれるのに、心理学を用いて抽象化された「娘」は、どうも能動性を欠く。
〈娘への処方箋〉の末尾で、信田は、読者の娘を慰める。
たとえ母といったんは離れたとしても、いつか、〈両岸から二人は交歓しあうだろう。「あなたのお腹の中に私は居た、そしてあなたの痛みとともに私は生まれた」「私お腹の中にあなたは居た、そして私の痛みとともにあなたは生まれた」/p186〉
支配的な母親といったん切断されてなお、「陣痛を与えた娘」という神話的な「罪悪感」を背負いなおさせたいようで、カウンセラーである信田に培われた、心理学的な母性愛幻想の強烈さを感じてしまう。
・「世代の境界」が侵犯される自然さ
〈母に対する処方箋〉には、母親たちに、キーワードとして「世代の境界」を何度も強調することが大切だと書かれている。〈システム論的家族療法では、親と子の間に世代の境界が必要であり、それが「侵犯」されることで問題が生じやすくなるとされる/p136〉。
逆にみれば、「世代の境界」は、専門家が教示してはじめて存在する人工的なもので、親子に境界はなくて当然、家族は一体、といった感覚が一般的なのだろう。なにしろ、二世帯住宅、という商品まである。(〈二世帯住宅は娘との同居を望む母親の願いです/i-52〉)
「世代の境界が侵犯される」とは、先にみたような、母親が娘に、「いいひといないの?」と結婚をせついたり、「いいひと」を紹介したら「親戚に顔向けできない」と泣いてやめさせたりといった娘の選択への干渉も、それに当たるのだろうか。
「孫がハーフなんて親戚に顔向けできない」といった母親の話を引用したが、「ありそうなことだなぁ」と苦笑はもれても、「母親が娘が決めるべき領域を侵犯した」、「若いものどうしにまかせるべきなのに」、と、母親がタブーに触れたと感じる人は、ほとんどいないと思う。結婚にまつわる母親の「子を思う気持ち」「老婆心」は、ホームドラマなら、ほほえましい母ごころとして描きそうだ。
母ごころを非難するより、「親に逆らえない娘が悪い」、「娘の愛情はその程度のものだった」、と、娘側の問題に考えそうだ。
では、これはどうだろう。
〈ある母などは、必死に相手の男性と娘を引き離そうとして娘を自宅に監禁までした…また、娘が、認められない男の子どもを妊娠したことがわかって、中絶させるために娘をだまして精神科病院に入院させようとした母もいる/p133〉
もし、母でなく父親が、娘を監禁したり中絶をしいたのなら、ふるめかしい「家父長権の行使」や「DV」を連想させる。でも母親という女性がしているために、印象が違ってしまう。
娘を監禁までする母親たちについて、信田は、娘が想定と外れたことに危機感を抱いて〈まるで手負い獅子のように凶暴になっている〉、と形容している。同じ「凶暴」な行為も、父親でなく母親がすると、動物的な、打算ない純粋な行動にみえ、権力の行使に見えない。
職業選択について介入する母親もいる。
・娘が自分のつてでみつけた先輩のベンチャー企業を、「先の見えない人生なんて遅らせるわけにはいかないでしょ」と涙ながらにまくしたて、そくざに「ママがネットで調べておいた会社案内」を渡す母親(p29)
「世代の境界」を侵犯する母親とは、つまり、娘を、別の思考をもつ独立した人格として尊重する気がないのだろう。
信田は、こうした状態に陥る母娘を、父親不在の母子家庭を典型的なモデルに想定している。(〈墓守娘たちの苦しみを生みだす一つの根拠として、両親の夫婦関係の脆弱性がある/136〉)
家庭にほとんどいない企業戦士の父親、といってもこの場合、たまに帰って暴力をふるうとか、母親に一銭も持たせないといった「DV」があるわけではない。彼らは、妻が娘と旅行にいくのを許すし、財布も妻に預けている。両親夫婦が揃って登場する例がひとつだけあるが、その父親は、「どんな高いレストランに行っても、ママの手料理よりおいしいものはない」と、母に称賛をおしまないことで家族関係を円満にはかっている(p49)。
『墓守娘』に登場する母親たちは、仕事に没頭するものわかりのよい夫から、家計と家族関係のマネジメントを全権委譲された、いわば「おんな家父長」といえる。
家庭という狭い空間を仕切る母親が、〈独裁者/p98〉のようになることもある。
たまに帰る父親が、適当に妻にあわせて面倒をさけるうち、母の独裁が支持され、いつしか娘が、一家の家事すべてをおしつけられる、といったパターンもある。
団塊ジュニア世代の女性には、結婚相手を選ぶ自由も、結婚しないでいる自由もできた。母世代より仕事の選択肢も幅広くなった。が、同時に、その母親には、母親が望まない娘の結婚や仕事について、却下する自由、母親が望む別の選択肢へ導く自由もできたようだ。
・母は娘の領域侵犯をしても咎められない
母親が、娘の領域に侵犯してみえても、第三者が警告するのは難しい。
たとえば信田は、ある母親相談者が、娘の部屋を携帯で撮影してみせてきたことに対し、「これ、お嬢さんは承知してますか?」と注意を促す。すると「どうして娘の部屋なのに」と逆ギレされそうになる。しかしすぐに、〈「そうですよね、三十を過ぎた娘の部屋に勝手に入っちゃいけませんよね、私がこうだから娘もいやになったんでしょう」と、私の意向を先取りしてしおらしい顔を見せる/p61〉。
また、結婚した娘夫婦の住居に、母親が入ってきても、娘の夫は義母に文句をいえない。
・共働きで家事がおろそかになる娘夫婦の新居に、母親が家事をしに通う。夫は〈善意でしてくれているとわかるだけに、いやな顔もできず、やがて夫婦が破綻する(i-p21)
・共働きの娘夫婦の新居に、母親が家事支援。娘は新居をインテリア雑誌のようにキープすることに嗜癖し、家具の買い物依存症に陥る(i-p77)
・娘夫婦と同居の母が、「あの子のことは誰よりも私が知ってますから」と義息子への嫌味をやめず、夫が妻(娘)に「もう限界だ」と泣きつく(p36)
母親の娘の領域侵犯に、これはおかしい、と疑問を感じた人がいても、母親をおもてだって非難できないし、注意を促すのも難しい。
おそらく母親とは、ひとひとり生みそだてた立派なおとななのだ(凶暴な獅子を連想させるほど感情コントロールができなくても)。「娘の幸せ」をもっとも思いやるはずの、娘に身近な年長者だ。母親の意思は娘の意思より尊重されてしかるべきだ。――おそらく、わたしたちのまわりには、そうした「常識」がある。
タグ:DV・性暴力・ハラスメント / 本 / 母娘関係 / DV
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