2011.12.03 Sat
共依存の母娘関係にDVをみる~信田さよ子『母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(2008年、春秋社)、『一卵性母娘な関係』(主婦の友社、1997)の再読(3) 杵渕里香
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Ⅲ 共依存の男女、DV加害者と被害者と、共依存の母娘の類似
先にみたように、『墓守娘』にでてくる母親は、ときに、父親が同じことをしたら、「家父長権の行使」や「DV」にみえることを娘にしている。
共依存の二者関係において、支配する側が、相手の意見に耳を貸さず、子ども扱いし、自尊心をいためつける。自分の見解をおしつけ、自立をみとめず、管理したがる――なされることの項目だけをならべると、母が娘にしていることは、暴力的な夫が妻にすることとよく似ている。
もちろん母親は、妻として夫に、嫁として姑に仕え、不在の夫に大事なことを相談できず不満を抱えているかもしれない。育児で仕事を失い、社会との接点をなくしたかもしれない。共依存の母は、娘に「家族のために我慢した」「どれだけ私が苦しい思いをしてきたか」(99)と悲しがる場合が多いという。しかし共依存の男たちも、いつも能力を認めてもらえないとか、前妻にひどい目にあわされたとか、相手の女の思いやりや、彼によくしてやりたいという気持ちうったえる。
共依存関係にあるふたりの支配・被支配は、その外側の世界における支配・被支配関係を援用しながら、強めることができる。
また、母娘には、ジェンダーによる力の非対象は生じようもない。しかし、〈人生の先輩である母に、永遠に娘は追いつくことはできない。こうして母は娘と距離をとる必要など感じることもなく、強者として支配する側に位置し続けるのだ/p48〉というような、家族内のポジションや年功序列が支持する、一生涯つづく優劣がある。
とはいえ共依存の男女と異なり、母娘には、セクシャルな結びつきはない。
しかし『一卵性母娘』によると、うまくいっていた母娘関係が、娘に男性があらわれると往々にしてバランスを崩し、それは〈共依存的母は、支配している娘に、自分以上の存在ができることは耐えられないのです。娘の新しい支配者に、自分が負けてしまうためです/p155〉と説明している。
共依存に陥った男性が女性にむける「嫉妬」も、同じことのようだ。
『DV・虐待の加害者の実態を知る』(L.バンクロフト)という、男性からの暴力に悩む女性を読者に想定している本では、DV加害者は〈あなたが会う相手が男性であれ女性であれ、自分が脅かされるかのように受けとめてしまいます/p108〉と、共依存における嫉妬を、性的な疑いによる嫉妬と切り離して説明している。
それによると、DV加害者の嫉妬は、相手の女性が、自分以外の男女とわず他人と会うこと、そして、自分達の外の社会とかかわりをもち、女性が自立することにむけられる。
〈嫉妬して攻め立てたり孤立させたりする行為は、所有意識の一つの現れ方にすぎません……所有という言葉を心に留めておいてください…加害者の振る舞いの多くが、あなたのことを自分のモノだと思っているからすることだと気づくでしょう/p108〉
DVをする男が、相手を「じぶんの女」「おれの妻」と思うように、母親たちも、「我が子」「かけがえのない私の娘」と思っているのではないだろうか。
・親は自立を阻むといえるのか
「妻子を養う」とされてきた夫が、妻の自立を阻むことはあるにせよ、「子を育て上げろ」といわれてきた母親が、自立を阻むことはないように思える。親が、結果的に子の自立をはばむ援助をしてしまうのは、賢くないにせよ、共感すべき「親の愛」があるようにみえる。
信田は、援助する親たちについて、〈カウンセリングで出会う親たちの多くは、子どもが貧しく親が富んでいることに対する、妙な後ろめたさを感じている/p115〉と観察している。日本の高度成長とともに歩み、世代的に享受できた豊かさを、子ども世代と比較して後ろめたい思いを感じているのだそうだ。
DVをする夫が妻の自立を阻む場合も、他人から妥当にみえる理由が並べられるという。共依存の親が、子の自立を阻みたい場合も、それなりの理屈が作られる、と考えたら、穿った見方だろうか。子を援助するのは、所有意識のあらわれのひとつではないか。
ここでひとつ、就職祝いに母親が娘にマンションを買いあたえた、という、いかにも過保護にみえる話を要約しておく(p49)。
・大学四年で就職が決まると、母親から「独り立ちするんだからね」と、父母でこっそり計画したという、自宅から徒歩五分のマンションを紹介される。複雑な思いがしたが、「私のためにお金を使ってくれた」と考えなおす。母は無断で合鍵をつくっていたが、それも「私のため」と考えなおす。父親が退職してからは、父母が毎朝、散歩のかえりに娘のマンションで朝食をとるようになる。
母親は料理が得意だが、娘が料理教室に通おうとすると「ママが教えてあげる、お金がもったいない」といって中止させる。いざ台所に立つと「要領が悪い」とすべて母親がやってしまい、料理を習う気力がなくなる。あいかわらず家事ができず、母に「こんな娘じゃお見合いを頼むわけにもいかない」といわれる。
仕事を続けながら三十五歳になると、父母から二世帯住宅の設計図を示される。自分用の部屋もあり、そこで自分が親の介護をするかと思うと、逃げだしたくなる。と同時に、逃避したい自分が恩知らずに思え、自己嫌悪も感ずる。
さらに、家の名義は、「パパとママとあなた」親子三人の連名になっている。自分がローンをせおうのか、と驚愕し、「お願いだからパパとママが決めるまえに、ひとことでいいから相談してくれる?」と言うと、母は「だって、あなたみたいな世間知らずに、苦労させるのはしのびないじゃない」と応じる。
この娘は、母親に不本意なことをされても、「私のために尽くしてくれる」と自分にいいきかせ、親子愛の文脈に沿わせて解釈しようとする。おそらく親の側も、娘のためと疑っていないのだろう。
DV加害者に殴られても逃げない女性は、「彼を愛しているから」「殴るほど彼の愛情が強い」といった男女の愛の物語を読みこんで耐える。殴る側も、それが正しい行為だ、当然の行為だと確信している。DVは、別に“無法者”が行うのではなく、世の中にある夫婦愛や男女の絆の文脈に沿って行われ、「正しく」みえるからこそ「間違った行為」であるはずの暴力がエスカレートする。
そしてDVは、夫を妻より優遇し、「女ごとき」をみくだす文化をふまえている。暴力が許されると思うのは、相手を軽蔑しているからだ。「見下して当然な相手」と思うから、DV加害者は暴力を反省しない。
この母親は、「こんな娘」とみくびる理由を家事能力にみつけ、それを反復強化している。娘が働いていても、そこには目をやらず、「世間知らず」と断定できる状況を作り出している。その外側には、親子愛を尊び、親を子よりも尊重する社会と文化がある。
この母親の娘への「過保護」は、「これは親子の愛である」という認知のゆがみを土台にしながら、娘の自尊心を傷つける方向で行われている。
成人した娘への援助は、夫から妻への虐待とよく似た構造がはたらいている可能性がある。その場合、過保護な援助は、親の所有意識のあらわれと呼べそうだ。
・娘はよい介護者になるか
先にあげた春日キスヨは、〈親の経済力に頼る以外収入の道をもたないシングルの娘介護者は、親が死亡するまで親の「金縛り」にあって介護者役割に縛り付けられる〉という。
娘が介護者になるのなら、自立をさまたげる親の“投資”も、それなりに合理的にみえる。
ところが春日は、母親の都合にふりまわされた自分の人生をみじめに思った娘が、長期介護のすえ、母親に心理的・身体的暴力をふるいはじめるケースをあげている。
虐待が通報され、母親が施設に入って回復すると、また母は「娘を心配する」というかたちで娘に金を送りだし、娘の自立の機会(仕事をさがし生活をたてなおすために公的機関の支援を受ける)を折ってしまう。
母親が娘を心配するあまり、結果的に、娘の自立を阻んでしまった、というと聞こえがいい。でもその「心配」には、「こんな世間知らずに、苦労させるのはしのびない」という過小評価が織り込まれている。
ある母親について、信田は、〈自分の人生を正当化してくれるものは、「娘を心配する母」というポジションだけなのだ/p64〉と観察する。それをひくなら母親は、娘そのひとではなく、自分を心配している。
先にみたように、共依存の母たちは、二十歳の娘に「結婚なんて」といいつつも時間がたてば意見を翻した。母たちは、その都度その都度、自分の気に入る「我が娘」を維持することに熱中し、娘がそこから外れそうになると、「心配」になり、パニックに陥ってみえる。
おそらく、「共依存」とよばれるような依存症の状態なので、将来的にじぶんにネガティブな結果がはねかえろうと、意識がまわらないのだろう。それがあたかも「あとさきを考えない、打算なき母の愛」にみえてしまうので、他人は、つい母を憐れみ非難をさけ、娘のふがいなさに目を転じる。社会が母親に与えている威力やその作用について、反省する契機が雲散霧消する。
・逃げろといわれるDV妻、とどまれといわれる墓守娘
では娘は、「家出して、母と連絡を断ってしまえばよい」だろうか。
「母と連絡を絶つ」ことについて、信田は非常に歯切れが悪い。
〈最悪の場合は、断絶もありかもしれない。娘のほうから一切の交流を断つという方法だ。お勧めできる方法ではないが、最低限、あなたたちが身を守るためにそれが必要と判断されれば、私はそれを支持したい。母にとって残酷ではないかという意見もあるだろうが、未来の長い娘の人生を優先するのが母として当然だと思う。だから最終手段としてはそれもありだろう/p184〉
暴行が伴うDVの場合と対照的だ。
〈逃げる覚悟のない女性を責めたり、抗依存だと批判する援助者もいた…強引な別居や離婚への方向付けが、すべてのDV被害者に有効というわけでもない。やはり最終的には、当事者の自己決定と意思を尊重する必要がある…あきらめて同居を続けるか。逃げて別れるかの二つに加えて、加害者プログラム参加を勧めるという第三の選択肢を付け加えている/p143 信田『加害者は変われるか?DV虐待をみつめながら』筑摩書房2008〉
「母親からの断絶を望む」ことじたいが通俗的なモラルに反し、他人の支持を期待できない。そのうえ、この場合、母は娘に身体的な暴行をしていない。
夫は暴力的だが逃げるほどではないと考えた不幸な妻が、上手にご機嫌をとったり、自分の要求水準を下げることで、夫と対立して苦しい状態を落ち着かせるように、支配的な母から逃れるのに、母を刺激しないような同居を選ぶこともありそうだ。
だいいち、もし娘が家を出るとなったら、母の目の届く住居から、いかに母を刺激せず移動するかとか、連絡を断った場合、母親が職場に涙ながら連絡してきたらどうしようか、DVから逃れる妻と似たことを、「(共依存関係から)自立する娘」は気にしないとなるまい。
そのうえ、DV加害者の場合は、内心まったく自分に非を感じていなくとも、妻からの離婚を恐れるからこそ、加害者の更生プログラムに参加する。ところが母親に対しては、彼女の「親の愛」に冷や水をあびせられる、「離婚」のような誰にでもわかりやすい最後通牒がない。
共依存の母親は、DVをする夫より、相手への態度をあらためる契機に乏しい。
・娘は「お断り」できるか
〈娘への処方箋〉では、娘は、母親からの提示に「お断りをしよう」「NOをいおう」とすすめている。では、この娘は、いつ「NO」と言えばよかったのだろう。
まず、マンションのような大きな買い物を、購入後に示され、「就職祝い」と意味づけされて提示されたら、簡単には断れない。それなりの説得がいるだろう。
またこの娘は、ローンを支払う責任をおわされる。それを拒否したくとも、率直な拒絶は控え、「お願いだから…」と婉曲表現を選んでいる。対して母親は、「あなたみたいな世間知らず」と論旨をすりかえ、「未熟な子ども」という劣った地位を押し付ける。
おそらく、単なる拒絶では母親はからめとってしまうだろう。娘ごときがと「逆ギレ」するかもしれない。「お断り」には、相応のテクニックが必要なのだ。
信田が〈母に対する処方箋〉で記す自己主張トレーニングは、娘のほうにこそ必要にかんずる。
因みに、『墓守娘』で描かれる娘の抵抗は、一切口をきかない(p60)、同居しながら距離をとる(p38)、別居しながら用心深く刺激しない程度のつきあいを続ける(p6)、などで、母にものもうすこと、言葉で意志を伝えること自体を、断念する方向でなされている。
タグ:DV・性暴力・ハラスメント / 本 / 母娘関係 / DV
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