エッセイ

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それでもやっぱりフェミニズム~「排除されてない感」の先にある「つながり」への、心地よい面倒くささと希望(1) 荒木菜穂

2011.12.22 Thu

女たちの絆

著者/訳者:ドゥルシラ コーネル

出版社:みすず書房( 2005-05-25 )

定価:

Amazon価格:¥ 3,780

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4622071428

ISBN-13 : 9784622071426

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*絆って
今年の漢字は「絆」だそうですね。ちなみに、B-WANのこの特集の特集のタイトルは「女のつながり」ですが、ドゥルシラ・コーネルの著作の『女たちの絆』という邦題のように、「絆」と「つながり」を同じように捉えることはできると思います。

ただ、フェミニズムとかジェンダー論的な人が「絆」と使う場合は、ちょっと違ったニュアンスがあって、たぶんセジウィックの「ホモソーシャル」(『男同士の絆』)が念頭にあると思うのですが、同質のもの以外を排除したり一定の価値観を強制したりする関係性みたいな、どちらかといえばマイナスの意味の場合もあったりします。

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もっとも、絆、つながり以前に、女性同士はなんだか分断されている、特にこの不安定なご時世、『女女格差』が問題化されたり、格差のある女同士がいがみあってるかのようなイメージさえ世に溢れています。安定した裕福な生活の女性とワーキングプアの女性、専業主婦と働く女性、モテと非モテ、みたいに。

その昔一部のフェミニズムが指摘したように、男と番うことで女の生活は保障されるから男をめぐって女は対立する、男の性のために女は主婦と娼婦に分断される、みたいな構図以上に、複雑な対立が作られてきている感じがします。都合のいい存在同士対立させといたら本当の責任のある場所は問われなくてすむからね。女同士は絆どころじゃないって感じ。

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*絆の問題
さて、今年の漢字発表の少し前(2011年12月11日)にも、毎日新聞大阪版朝刊の連載「時代の風」にて、斉藤環さんが、「『絆』連呼に違和感 自由な個人の連帯こそ」というタイトルで書いてらっしゃいました。絆には束縛の意味もある、絆の強調は(絆という言葉が示す)プライベートな関係性だけに目を向けさせ、社会的な問題から目を逸らさせる危険性がある、本当は絆なんてものは存在しない時代だからこそ自由な個人の連帯が重要だ、そういったような内容であったと思います。全くもってそのとおりだと感じます。

フェミ的に言えば(ってわざわざ言い換えることでもないけど)「個人的なことは社会的なこと」と考えるためには、「絆」という人間関係のキレイゴトやまやかしで満足していてはいけない、ということになるでしょうか。「みんな」が支持して涙した「絆」に違和感を唱えることは、人と人とのつながりを拒否し、自分勝手に個人が生きることとして、嫌われてしまいそうなことではあります。でも、それぞれの個人や多様な価値観を尊重しながら、他人と向き合い、つながっていくことは、当然我が侭でも自己中心的なことでもないはずです。

*「絆」に伴う排除のいろいろ
家族について考える学問なんかでも、近代以前のしがらみだらけの地域のつながりか、個人主義以降の核家族か、どっちがいい??(実際はもっと複雑ですが)みたいな話になることがしばしばありますが、結局高度経済以降の日本の近代は「絆」を家族中心に再編成して、私的な場所である家族の機能に頼って経済でもなんでも続いてきたわけだから、多様な個人の生き方、なんてことから考えたらどっちもどっち、という感はあります(とはいえ、否定が目的になるより、むしろいろんな時代の、いろんな社会のイイトコドリをして未来につなげていくことは人間にしか出来ないことだと思うけど)。

ましてや、個の尊重も重視されないままに、わかりやすい「絆」からほっぽり出されて不安定になった家族の問題の要因を、地域や国家の絆に求めるなんて言語道断。結局それって、「絆の中の価値観に同意する人」には安全が約束される、という、同意するかどうかはあんた次第、というある意味自己責任に等しいことになってしまうわけですし。多様な個を尊重しないままの「絆」は、ホモソーシャルでもそうですが、「絆」内の価値観の合わない者を排除することで成り立てるわけで、ついでに、排除そのものが「絆」を強化することもあるでしょう。キレイゴトかもしれないけど、情けない、暗い話。


*「排除されてる感」について
日本の戦後とか教育とか地域社会とか家族とか、社会理論うんぬんでは様々な角度から説明されてる話だと思うけど、そういう小難しい話じゃなくって、この、排除感、排除が行われてる空気、排除されてる感、これこそが私が気持ち悪いと直感的に感じることです。単に「仲間はずれにされてる」っていう僻みなんかじゃない(一方でそんなしょうもない仲間になりたくない、という気持ちもある場合が大きい)。人間の社会のメインの場、力を持ってる場、スタンダードな場から排除されてる感、そんな不快。(ジェンダーの話がメインになっちゃうけど)女性差別、とか男女格差、とかずっと言われてて、それが改善されてるのか逆差別になってるのか知らないけど、その流れに一致してるのかしてないのか、という微妙で緊張感のあるところにある「排除されてる感」の問題。感覚の話だから、たいがい、きっと、女の感情、とかで片付けられて、おしまい☆。

たとえば、働く場において、女性が差別されてる、とかより、自分はそもそもそこに入れてもらってないかもしれない、という感覚のほうがリアル。今の社会ではそれはきっと「女の甘え」と翻訳されたりする。あと、たぶんその辺の男子よりエロいこと好きかもだけど、風俗とエロ話が不快なのは、そういう話や価値観に、女は入ってくるな、エロの領域では男だけが人間で、女はそこでは人間以下、みたいな空気がキモいから。人として女を扱うエロなら、なんぼでもオッケー。契約としてのSM、魅力的なエロスの権力、そういうのが大人のエロじゃないの、現実生活にまで引きずったりせずに、と思うけど、そういうのは興奮しないエロらしい。なんぼでも軽蔑してやります、低レベル(笑)。ああ、やだやだ。でもそういうのわざわざ接点持って怒ったり気にしたりしなくてもエロも含め幸い毎日楽しいからいいけど。

*女のつながりが意味を持つと思う理由
で、そんな「排除されてる感」に溢れた社会でのオンナ同志のつながり。どうしたらいいか。なんて問いがあると、すぐに、女だけ特別になぜつながらないといけないのか?と言われたりするけど、この、「排除されてる感」の一バリエーションとしての、女が思う「排除されてる感」を打開する一つの方法として、女がつながることはアリだと思っています。もちろん、それは、「女だからわかりあえる」なんて考えに基づいて成り立つものではあってはならないと個人的には思っています。なんかそういうのって、逆に閉塞感ある感じがして嫌だし。

女は一緒、より女はバラバラ、さあわかりあえない、どうしよう、なんてのが90年代以降の日本のフェミニズムのずっと課題だったわけだし、オンナ同志でも、支配者と被支配者になったり、それが場面によっては逆転したり、複雑な関係性の中に女は置かれているのは周知の事実でしょう。でも、女と男を、それぞれ個人としてではなく、特別なグループとして扱う社会のしくみを問うことは、とっても大きな意味を持つことだと思う。

多様なはずなのに、「女」というグループに押し込められて、それによって気持ち悪いことが起きているという経験、その経験の人に共感するならその人とより深くコミットして(単に「わかるー」てだけじゃなく自分はなぜ共感するのかということには責任を持って)、共感できなくても、そういう仕組みがあると知って自分の思う範囲でコミットして(自分が抑圧者側になることも意識しながら)、社会を問題化していく。そういう社会変革(笑)のためのアバウトなつながりが、女のつながりだと私は思っています。別に、女のつながりだけが特別なんじゃなくって、社会のたくさんある中の問題を考える、一つの側面でのつながりというだけなので、そのつながり自体が存在することは否定しなくていいでしょう。って。

じゃあ、そんな女のつながりって結局何なん?て話にはなるわけですが、無駄に長くなりそうなので次で。








カテゴリー:女同士のつながり / シリーズ

タグ: / フェミニズム / 格差 / ホモソーシャル