2023年6月23日、「LGBT理解増進法」が施行された。これを報じたインターネット上の記事につけられたコメントには、スポーツに焦点をあてた内容が散見される。中には、近年のスポーツ界の動向に関する十分な知識がないために、誤解が生じているのではないかと思われるものもある。
そこで、この記事では、トランスジェンダーの人権とスポーツの公平性のバランスをめぐるスポーツ界の現状を紹介する。トランス女性選手を不公平な存在、危険な存在とみなす語りにどのような誤解があるかを考えるとともに、人権を尊重し、拡大させる21世紀型のスポーツについて考えたい。

(1)スポーツ界の現状:スポーツの公平性にどの程度重きを置くのか、という議論
近年のスポーツ界では、多くの組織が定款や規程にLGBTQ+の人権を尊重し、差別を容認しないことを明記している。オリンピックでは、2014年のオリンピック憲章に性別や性的指向にもとづく差別を認めないことが記された。
この記事の<参考資料>に付したとおり、2000年を境に、オリンピックでは性の多様性にスポーツの参加資格をどのように適合させるか、という議論が進められてきた。実際のところ、男女別カテゴリーで競うという制度を維持する限り、性の多様性に完全に適合することは難しい。個人的には、競技のカテゴリーを「女」「男」という性別の名称を冠した制度のまま突き進むことの限界が見えはじめているようにも思われる。
現在、競技を統括する国際競技団体(IF)は、それぞれの競技に見合った参加資格を検討し、いくつかの競技では暫定的な結論が公表されている。ただし、統括する競技において声をあげるトランスジェンダー選手が実際に出てくるまでは、残念ながら存在を不可視化し、静観を続けるIFもあるかもしれない。
現状の直接的な契機は、2021年にIOCが「公平で性自認や身体の性の多様性にもとづく排除や差別を容認しないIOCの枠組み(以下、最新フレームワーク)」を公表したことであった。
最新フレームワークの主旨は、トランスジェンダーや身体の性の多様性に対応する参加基準の設定を国際競技団体に委ねるというものであるが、その際に守られるべき原則として、10項目が示された。以下にその概略を示しておこう。
なお、全文は日本オリンピック委員会(JOC)のホームページに日本語訳とともに公開されている。(https://www.joc.or.jp/olympism/document/)
① 排除がないこと
② 選手の身体的・心理的・精神的なウェルビーイングを優先する
③ 差別を容認しない
④ 不公平で不均衡な競技上の優位性がないという確証を提示し、選手の身体的な安全を守る
⑤ 身体的外見やトランスジェンダーであることを理由に不公平な優位性があるとするような推定をせず、根拠のない排他的理由にもとづく排除を行わない
⑥ (特定の選手を排除する場合には)不公平で不均衡な優位性が「一貫して」存在することや他の選手の身体的な安全に対するリスクが避けられないことが示されること
⑦ 参加基準を満たすための医療科的介入や侵襲的な検査の強制がないこと
⑧ 参加基準の設定や見直し、評価、改正では、公正性・公平性が確保され、不利益を受ける可能性のある選手も交えた協議の仕組みを整備する
⑨ 参加基準に関する意思決定過程の透明性を確保しながら、選手のプライバシーは守る
⑩ 参加基準は、倫理、人権、法律、科学、医学の進歩を反映するよう、定期的に見直す

   この最新フレームワークでは、スポーツをスポーツとして成り立たせるための競技の公平性は重視されているものの、より重きを人権の保護・尊重に置いていることが読みとれる。

(2)国際競技団体の動向
この1年ほどの間に、いくつかのIF独自のトランスジェンダーの参加基準が公表されている。そのうち世界陸連、世界水連、国際ラグビーリーグは、国際競技大会へのトランス女性選手の出場を認めないとする方針を示している。留意すべきは、いずれも国際的なトップレベルの競技に限定したものだということである。国内外のすべての競技会で同様の方針をとるべきだとしているわけではない。さらに、現時点で科学的な根拠が不足しているための暫定的なルールであり、今後、見直される可能性があるとしているとしている
スポーツ界では、「女子競技の公平性」を理由にこの決定事例を歓迎する声がある一方で、IOCの最新フレームワークに示された「根拠のない排除」にあたるとし、世界スポーツ医学連盟の関係者をはじめとする多方面からの批判の声もあがっている。賛否両論がある中で、誰もが認めざるを得ないのは、「トランス女性選手は身体的にどの程度優位なのか」を判断するための科学的根拠がスポーツ界には蓄積されていない、ということである。
上述の3つの競技団体が公表したルールにも、それは示されている。「集団でみた場合の男性が女性に比して競技力において優位性がある」「コンタクトスポーツでは、思春期を男性として過ごした選手がそうではない選手に与える危険性が高い」とされてきた過去を踏まえた「暫定的」なルールであり、科学的な根拠の蓄積により変更することが記されている。
一方、公平でインクルーシブな基準を求めて議論を続けている競技団体もある。たとえば世界トライアスロン連合は、トランスジェンダー当事者も交えた検討委員会を設置し、他のIFへのヒアリング、医学的調査、法的調査を行いながら、血清中テストステロン値の上限を見極めた参加条件を一旦は設定しようとした。テストステロンは男性ホルモンの一種であり、主に筋量に大きな影響を与えるとされる。しかし、テストステロンのみが競技における優位性を確定する要素とはいえないことが最新の研究で示されるようになったこともあり、議論は継続されている。周知のとおり、トライアスロンは陸上競技・水泳の長距離レースと自転車競技が融合する競技である。そのトライアスロンのIFが、世界陸連や世界水連とは一線を画した方針づくりを試みている点には、注目する必要があるだろう。世界トライアスロン連合では、意思決定機関の役員としてLGBTQ+当事者も選出されており、EDI(Equity, Diversity and Inclusion Commission)という名称の委員会も設置されている。競技の性格が類似している場合でも、意思決定機関の多様性に関する理解の度合いによって、何を公平だと考えるかには違いが生じることが示されているといえるだろう。

(3)インクルーシブな参加資格を工夫したUSAフェンシングの例
日頃から性の区別なく練習をする慣例のあるスポーツでは、そもそも、性別に競う必要があるのか、という意見もみられる。そのひとつがフェンシングである。フェンシングではIFの参加基準とは別に国内競技団体(NF)が独自の国内での方針を公表する例がみられるようになっている。たとえば、米国のフェンシング連盟(USA Fencing)は「USAフェンシング トランスジェンダー・ノンバイナリー・アスリートポリシー」を公表した。このポリシーの冒頭には、以下のように記されている。

USAフェンシングには男子と女子の2つの部門があり、各部門への参加を決定するために性別の二元論を使用することがデフォルトとなっています。
しかし、すべての個人のジェンダー・アイデンティティが二元的であるわけではなく、性別の二元性をデフォルトとした参加は、一部の個人が排除され、安全でないと感じるという弊害が引き 起こされる可能性があることを私たちは認識しています。USAフェンシングは各部門において、出生時に割り当てられた性別にかかわらず、性自認やその他の性別表現に基づく差別を行いません。そのため、選手は以下のガイドラインに従い、出生時に割り当てられた性別に関わらず、USAフェンシングが公認する大会に性自認/性表現に沿った形で参加することが認められます。


方針の柱がこのように示された上で、14歳以下のユースカテゴリー、ジュニア・シニア・ベテラン選手のカテゴリーに大別し、トランス男性選手、トランス女性選手、ノンバイナリー選手のそれぞれの参加資格が定められている。注目すべき第一の点は、ユースカテゴリーでは一切の制限がなく、性自認にもとづく出場が認められていることである。第二は、テストステロンの上限値などは設けられていないことである。第三は、ノンバイナリー選手の参加資格が明記されていることである。ノンバイナリー選手は「登録時に自認する性別」で参加することが認められ、出生時に割り当てられた性別とは異なる性別での出場を希望する場合には、トランス男性選手またはトランス女性選手に関する参加条件に従うとされている。
競技の性格によっては、「デフォルト」が20世紀初期からのスポーツの慣例に従う男女別競技であったとしても、ほぼ排除のない形での参加資格の設定が可能であることを示してくれる事例である。

(4)トランスジェンダーの参加資格をめぐるスポーツ界の動向はどのように捉えることができるのか−20世紀型スポーツから21世紀型スポーツの誕生へ
 ここまで、トランスジェンダー選手の参加資格をめぐるスポーツ界の現状を概観してきた。この概観からいえることは、トランスジェンダー選手、とりわけトランス女性選手の存在を否定し、排除するという考え方は、男女別競技という制度を維持しているスポーツにおいてさえ、20世紀の遺物になろうとしている、ということである。
確かにいくつかのIFでは、国際競技における出場を制約するなどの動向はみられる。その動向においても、「暫定的な決定」とされた参加を制約するルールの妥当性や合理性は、科学的根拠の蓄積とともに問われることになる。議論を続ける最中にも、大会開催スケジュールを止めることはできないという時間的制約の中で、一旦、思考停止し、20世紀型の制度を維持することを選択した競技がある、と理解すべきだろう。
そもそもスポーツは、「何が公平か」について、当該競技を愛好する関係者が協議し、「公平らしくみえる」落としどころをルールとして定めることで成り立ってきた。スポーツの歴史的発展をこのように捉えれば、どの競技にファンやスポンサーが親しみを持つかを知る手がかりのひとつとして、21世紀の人権保障に取り組む競技なのか、20世紀の人権保障に留まっている競技なのか、という視点が必要になってくるかもしれない。

(5)トランス女性選手を不公平な存在とみなす語りの誤りを見抜く
 この記事の読者の多くは、ここまで紹介したような競技団体の参加資格の決定に直接的に参画する機会には出会わないかもしれない。しかし、日本にはすべての国民にスポーツの権利を認めるとしたスポーツ基本法があり、これにもとづく基本計画によってスポーツの振興には税が投じられている。スポーツは、強制されることのない、私的な活動ではあるが、一定の公益性もあるといえる。そのため、スポーツ界には、上述のファンやスポンサーとしての視点だけでなく、市民一般のモニタリングや意思表示が反映されることも必要である。そうした市民のひとりとして、私たちはどのようなことに留意すればよいだろうか。
スポーツ以外の分野でもいえることだが、性別の集団ごとの傾向がすべての個人にあてはまるわけではない。たとえば「男子に混じって女子が競技したら負ける」「女子に男子が混じったら不公平」という言葉はよく耳にする。性別カテゴリーという集団でとらえた傾向はそうかもしれない。だが個人や場に目を向けると、これらの言葉は「事実」ではないことに気づく。日本一を決定するための女子カテゴリーの短距離走では、男性の一般市民ランナーが参加しても勝つ可能性は低い。世界トップレベルの女子選手が町内運動会の男子競技で負ける可能性もまた、低い。
同様に、トランス女性であれば、すべてのシスジェンダー女性に優位するわけではない。そのことを示す事例は、すでにトップレベルのスポーツにおいても存在する。たとえば東京2020大会の出場に挑戦した米国の自転車競技BMXフリースタイルのトランス女性選手は、代表団補欠選手にランキングされたが、惜しくも補欠に留まり、出場は叶わなかった。
トランス男性選手はシスジェンダー男性選手には勝てないという思い込みを払拭してくれる選手も存在する。2016年のトライアスロン全米選手権では、アメリカ代表団入りを果たした初のトランス男性選手が誕生している。
「女子競技に参加するトランス女性は女性の権利を脅かす不公平な存在である」という語りは、一見、正しいようで、実際はスポーツをあまりにも単純化した理解だといわざるを得ない。<参考資料>に示したとおり、国際競技においても、トランス女性選手が誰でも無制限に参加してきたわけではない。その時々の制約を受けながら、ルールにもとづき、参加している。しかも、すべてのトランス女性選手に特定の優位性があるという考えの根拠は、いまのところ存在しない。
「同質的である」と認め合った集団内での競い合いの結果に、一定の意味が与えられるのがスポーツだという考えに立ちもどる必要がある。競い合いに適する集団を構成するルールになっているか、否か、が問われることがあったとしても、誰かが「不公平な存在」だとして尊厳を傷つけられることはあってはならない。
興味深いのは、こうした語りは、多くの場合、人権を保護されるべき少数者が「敗者」である間は語られず、勝利した時に登場し、高まることである。同じことは、身体に障害のある選手に対しても繰り返されてきた。パラリンピックの勝者の競技記録がオリンピックのそれと同等、あるいは超える可能性が見え始めたときに、障害のある選手は突如「不公平な存在」として語られるようになっていった。
どのようなレベルの、どのような大会であったとしても、トランスジェンダーの人権よりも競技の公平性が重視される事態は避けなければならない。もしそのような事態を当然だとして、トランスジェンダー選手を完全に排除したまま放置する競技団体があるならば、それは公益性の高いスポーツとしてのブランドを放棄した競技なのだと受け止める必要があるだろう。
男女別カテゴリーで競うというスポーツの制度は、トランスジェンダーを排除しようとする政治に利用されやすい。競技の公平性をめぐる語りだけでなく、スポーツ施設のトイレ、更衣室、合宿などで、トランス女性選手の参加を認めれば「『女性のふりをした人物』が性犯罪目的で忍び込む」という語りもまた、トランスジェンダーを排除する政治的な語りの例である。ある性犯罪者の性別が男性であったからといって、すべての男性を性犯罪者扱いすることの合理性のなさは、誰もが理解する。同様に、すべてのトランス女性選手を性犯罪者扱いすることは非合理的であり、トランスジェンダーのスポーツの参加の権利と性犯罪とは、切り離して対応を検討すべきである。
2016年のIOCによるトランスジェンダー選手の参加基準(<参考資料参照>)は、テストステロン値の上限を設けるなど、排除がまったくないというわけではないものであった。それでも、外科的手術を行わない/行えない選手の参加資格を認めたことには理由がある。スポーツ界の国際的な議論の中では、トランスジェンダーとして生きるという現実は「自認を表明しさえすれば性別を変えることができる」というような簡単なことではない、ということが理解されてきた。小さな一歩ずつではあっても、人権の拡大に向けて進んできたのだ。
日常の社会における性別は、ほぼ外観にもとづいて判断されてしまう。それゆえに、トランスジェンダーは、生まれたときに割り当てられた性別とは別の性別の外観を、長い、長い時間をかけて自分のものにし、家族や周囲の人々に違和感なく受け止められるよう努力し続けなければならない。人生におけるそのような努力の過酷さと、オリンピック選手が競技力向上のために続ける努力の過酷さは、比べ得るものではない。まして、後者がより重要だと考えるのは誤りだということをより広く伝えていく必要がある。

おわりに
国内でLGBT理解増進法が成立したことに関しては、最終の条文である第12条(措置の実施等に当たっての留意)に「全ての国民が安心して生活することができることとなるよう、留意するものとする。」という記述が加えられた。この妥当性は採決前から問われている。国内のスポーツにおいては、問題となっている記述の前に「性的指向又はジェンダーアイデンティティにかかわらず」とあることこそを大切にして、政策が進められることを望みたい。スポーツ基本法には「スポーツは、これを通じて幸福で豊かな生活を営むことが人々の権利である」と記され、オリンピック憲章では「性別や性的指向にもとづく差別」が明確に禁止されているのだから。
なお、スポーツにおける女性の権利が主張されるのであれば、是非とも積極的に取り組むべき課題があることについても指摘しておきたい。スポーツ界で女性の役員、コーチ、審判、トレーナー等が活躍する環境が整っておらず、女性割合は依然として少ないこと、女性がリーダーシップを発揮できるまでには至っていないこと、子どもの体力が二極化している中でとりわけ中学校期以降の女子の運動へのアクセスの機会が減少していること、女性選手に対するセクシュアルハラスメントや暴力、性的視線での盗撮など、問題は山積している。

來田亨子(中京大学)