(1)男女別競技の成立とトランスジェンダー
スポーツの国際競技の場で、女子選手を体格や声などの外観によって排除しようとする動きは、1930年代に見られるようになった。現段階では、1936年に米国で新聞に掲載された記事が、スポーツ界に強い影響を与えた最初のものだとされている。「女子の公平な陸上競技のために、選手が女性であることを証明する何らかの検査が必要である」と主張したこの記事は、当時、米国の陸上競技組織の会長職にあったA. ブランデージによって行われた。
性別不合の人々への医療的介入の記録は、1920年前後からみられるとされる。ブランデージがこの主張を行った時期、米国の体育雑誌には、国際大会の女子競技で活躍し、引退後に男性として人生を送っている選手の特集記事が掲載されている。ブランデージが残した資料のアーカイブには、この雑誌の切り抜きが含まれていたことから、社会やスポーツ界で可視化されるようになったトランスジェンダーの人々を排除しようとする主張であったと考えられる。
1930年代に「女子の公平な競技」が主張されるようになった背景には、様々な競技で女性の参加が拡大したことがある。男性が中心となって組織化が進められてきたスポーツ団体は、女性の競技を受け入れない立場と管理下に置こうとする立場に分かれていたが、女性たちの競技は、もはや無視できない存在になろうとしていた。
男性中心の社会では、女性は男性と同じことはできないという決めつけや、同じことを行ったとしても男性より劣るか、あるいは異なる意味を持つと位置づけられた。この位置づけは「身体的に劣る存在である女性たちが過激すぎない(=男子と同等ではない)競技を公平に実施するため」の男女別競技という制度を誕生させた。今でもこうした時代の名残を示す慣例は、言葉の使用にもみられる。たとえば「野球」という語は一般に男子野球を指して用いられるが、女子の野球は常に「女子野球」と表現される。近年話題のChatGPTに、著名な女子野球チームを答えてもらうには、「著名な『女子野球』チーム」をあげるよう指示しなければならない。だが、著名な男子野球チームを知るには「著名な『野球』チーム」をあげるよう指示するだけでよいのだ。
ジェンダーの視点で男女別カテゴリーの制度化の歴史を振り返れば、トランス女性選手の排除というブランデージの主張は、男女別競技という制度下で、女性たちが男性よりも劣っていることを前提とし、より劣る存在である女性たちの公平性を守るための主張だったとみることができる。戦後、ブランデージは国際オリンピック委員会(IOC)第5代会長となり、1968年グルノーブル冬季五輪での試験的実施を経て、オリンピックにおける性別確認検査を確立した。

(2)性別確認検査の破綻とトランスジェンダーの人々の参加ルールの成立
ブランデージが制度化した性別確認検査は、2000年以降、廃止された。正確には、オリンピックにおいて、すべての女子出場選手に課されることはなくなった。この検査は、オリンピックへの導入が議論された時点から、一部の医学者によって検査の確実性に対する疑問が呈されていた。染色体による検査では、排除されるべきではない選手を排除したり、競技において(もしかしたら)優位性があるかもしれない選手を除外することはできず、競技の公平性を守ることはできないと指摘されていたのだ。実際、検査が開始された1968年以降、競技における優位性はないと判断されるケースであっても、性別確認検査によって参加資格を失う選手の事例が発生していた。人権の観点からも、女性にだけこの検査が課されることを批判する声は大きかった。
検査の廃止から20余年を経て振り返れば、性別確認検査とは「女子カテゴリーで公平に競技できる人」を確定することに固執するあまり、検査方法をめぐる混乱に終始した制度であった。女性の参加者数が増えた一方で、スポーツ界が選手の性別を決定できるかのような人間に対する尊厳を欠く事態が生じていたことは、一般にはあまり知られてこなかったのではないだろうか。
その間にも欧米を中心とする国際社会では、トランスジェンダーの尊厳を守り、人権を保障するための議論が進んでいた。この動向を受け、IOCは2003年に初めて「性別を変更した選手に関するストックホルム合意声明」を公表した。スポーツ界に大きな影響を与えるオリンピックにおいて、トランスジェンダー選手の存在が承認され、参加の機会を保障しようとしたインパクトは少なくなかった。
とはいえ、この時点では、外性器の変更や性腺摘出術が不可欠であり、公的機関による性別変更が法的に承認される必要があるとともに、十分な期間のホルモン療法を継続することが条件として課されていた。性別適合手術を望まない、あるいは受けられない選手は出場ができなかった。出身国が性別の法的変更を認めていない場合にも、出場ができなかった。トランス男性とトランス女性で条件の違いはなかったが、実際には、極めて限定的な選手しか出場ができなかったと考えられる。

(3)医学モデルから人権モデルへ
それから約10年後の2014年、IOCはLGBTQ+の人々の人権の尊重を含むジェンダー平等の促進を強化する方針を中長期戦略に盛り込んだ。その結果、同年には、LGBTQ+の人々に対する差別を容認しないことを明示する文言がオリンピック憲章(以下、憲章)に書き加えられた。
憲章には、人権の尊重や平和の構築への寄与などのオリンピックの理念・目的を記した「オリンピズムの根本原則」という項が置かれている。この項とオリンピックのガバナンスを定めた条文から構成されているゆえに、憲章は「スポーツ界の憲法」と称されることもある。加筆された根本原則では、1991年に明示された性別に加え、性的指向にもとづく差別を認めない、と記された。なお、この条文の英語版では性別にはsexの語が用いられている。改正当時に文言の作成に関わった法的部門の関係者によれば、genderではなくsexを意図的に用いることとした議論はなかったとされ、その後のIOCの各種文書やホームページでも、性別、性自認、性的指向にもとづく差別を禁じることが示されている。
この改正から2年後の2016年には、トランスジェンダー選手の参加基準が示されたIOCの新たなガイドラインが公表された。「性別変更と高アンドロゲン血症に関するIOC合意形成会議」の記録文書である。この合意形成会議が開催されることになった直接的な契機は、DSDs(Differences of Sex Developmentの略称。医学的にはDisorders of Sex Development(性分化疾患)とされる場合もある。典型的な女性あるいは男性とはことなる身体的特徴をもつ状態の総称で、具体的な体の状態は人によって大きく異なる)の選手の参加資格をめぐる議論が起きたことであった。新しいガイドラインでは、外科的な医療の介入は必要とされなかった。また、国によってトランスジェンダーの人権に関わる法整備状況が異なることへの配慮が必要であるという認識も示された。
これらのIOCの動向の背景には、2006年の国際人権法専門家会議で採択された「ジョグジャカルタ原則」を起点に、2014 年国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)や世界保健機構(WHO)などの7 つの国際機関による共同声明の採択、2015 年ヨーロッパ評議会における「ヨーロッパにおけるトランスジェンダーの人々に対する差別」決議の採択などの影響があったと考えられる。トランスジェンダーの人権保障を医学モデルから人権モデルへと移行する必要性を提唱し、実現しようとした世界の潮流の影響は、スポーツ界にも反映されてきたのである。
しかし、2016年の新たなガイドラインにも以下に示すような問題点があることが指摘された。

①トランス女性選手の主要な参加基準が血清中のテストステロン値とされたこと
男性ホルモンの一種であるテストステロンは、筋量に大きな影響を与えるとされている。2016年のガイドラインでは、トランス女性選手の血清中テストステロン値が10nmol/ℓ以下であることが条件とされた。10nmol/ℓという数値は、思春期を迎える以前の平均的な男子の血清中テストステロン値の上限であり、これと同等ないしそれ以下であることを「女子カテゴリーで競う女性」として認めるというものであった。
ところが「テストステロン値を基準とするのは妥当ではない」という主張は、トランス女性選手の権利を擁護する側からも、トランス女性選手を排除すべきとする側からも行われた。この理由は、第一に、テストステロンの値の個人差は非常に大きく、誰もが平均的な女性ないし男性の範囲に収まるわけではないこと、第二に、スポーツの競技力は筋量にのみ左右されるわけではなく、骨格、技術、スタミナ、傷害の起きやすさなど様々な要素で構成されていること、であった。特に第一の点に関しては、たとえば米国の約700名の全国レベルの選手の血清中テストステロン値の分布を明らかにした研究などによって、平均的な男性または女性のテストステロン値にあてはまらない選手が一定数存在することが明らかにされている。
また、性別不合に対応するためのホルモン療法を実施することにより、一般的には血清中テストステロン値が低下する。しかしそれが筋量にあたえる期間や効果には大きな個人差があり、さらにはトレーニングの効果にも個人差があるために、一概に基準を定めれば公平性が担保されるとは言い切れないとするデータも示されるようになっている。逆にいえば、基準よりもテストステロン値が高い場合でも、筋量が低下するケースもある。こうしたケースを排除することになった場合にも、公正なスポーツとしてのあり方は脅かされる。

②身体への医学的介入としてのホルモン療法が必須とされたこと
トランス男性選手に対しては、ホルモン療法を受けていることを世界アンチ・ドーピング機構(WADA)に届け出ることが条件とされた。ドーピングとみなされないようにするためであった。一方で、トランス女性選手に対しては、血清中の男性ホルモンの一種であるテストステロンの値に上限が設けられた。この上限が課されたことによって、トランス女性選手は、競技に参加するために性別不合への治療として必要とされる以上の医療介入を余儀なくされる可能性があった。しかし、このような必要以上の医療介入が心身に及ぼす影響に関する科学的な検証結果は、十分には得られていなかった。そのような無理な医療介入は、誰も望んでこなかったからである。

(4)初のトランス女性選手の参加、バックラッシュ
 2014年の憲章改正以来、LGBTQ+であることを大会で公表する選手の数は、年々、増加している。東京2020大会では186名、パラリンピックでは36名の選手がカミングアウトした。この数は2012年ロンドン大会の8倍、2016年リオデジャネイロ大会の3倍にあたる。ただし、カミングアウトをした選手の出身国は、同性婚が認められたり、差別を禁じる法的な対応がなされている国であり、日本人選手は1名も含まれていない。
当事者である選手がみな、大会でカミングアウトをする必要があるわけではない。だがカミングアウトをした選手の中には、「カミングアウトする必要性を感じたんです。メダルを獲得するまでは、私の声はこれほど大きくありませんでした。今ならこの方法で誰かを助けられます(ポーランド・ボート代表、同性愛者であることをカミングアウト)」と述べる選手もみられる。このように、国や組織が差別を認めないことを法やルールで示すことは、LGBTQ+の人権を尊重する際の大きな力になることが、スポーツ界でも示されている。
 IOCがオリンピックとLGBTQ+選手をめぐる歴史の中で、最も歓迎すべきことだと評したのは、公表された事例としては初めてトランス女性が東京2020大会に参加したことである。彼女は2016年にIOCが定めたルールに則り、ウェイトリフティング競技に出場した。
一方で、この出来事を契機に、トランスジェンダー選手の人権を尊重する動向に対するバックラッシュも目立つようになった。女性の権利を擁護する団体は「男性の体のまま女性を名乗るトランスジェンダーは、女性の活躍の機会を脅かしており、オリンピックの女子競技に出場すべきではない」とする見解を公表した。また、同時期以降の米国では、ミシシッピ州等のいくつかの州でトランス女性選手の大会出場を禁じる州法が成立するようになった。「トランス女性選手が大会で上位に入ったために、奨学金を得ることができなかったとし、教育とスポーツの機会に関する女性の権利が侵害された」とする訴えが起きたためである。
こうした現状を受け、IOCは2021年11月、トランスジェンダーの人権を尊重し、公平な競技をめざすため「公平で性自認や身体の性の多様性にもとづく排除や差別を容認しないIOCの枠組み」を新たに公表した。