今さらですが、時々フェミニズムって一体なんだろう、と考えることがあります。というのも、フェミニズムって・・・に続く言葉が、時として相反するような、矛盾するように思えることがあるからです。そうなると、自分ってフェミニストなんだろうか、もしかしたら反フェミなんじゃないだろう、と、なんとも不安定なフェミニストとしての生き様にもなってしまいます。そんなもやもやはずっとあって、昨年刊行された『やわらかいフェミニズム』の中の「モザイク模様のフェミニズム」という文章で少し書かせていただいておりますので、またよかったら見てみてください(宣伝)。

やわらかいフェミニズム: シスターフッドは今

著者:河野貴代美

三一書房( 2022/09/22 )

もっとも、私にとってフェミニズムは自分を肯定してくれる救いだった、という人や、女性の生き方を否定する鬱陶しい存在だ、というように見解が分かれることはしばしばあるとは思いますが、そういうのはまあ、その人がどのような生き方を望んでいるかによる違いなのでさもありなん、という気がします。女性だからこう、男性だからこう、というあり方の否定は、多様な生き方の人びとを肯定する一方、それに沿った生き方を好んでいたり、強く思いこんでいたりする人に混乱や反発をもたらすこととなります。そういうのも、根っこではつながってる感じはしますが、私が思う相反や矛盾は、そもそも、客観的に説明する内容自体が違うこと言ってるような、そんな感じということです。

例えば、フェミニズムは、「女であることに甘えている」思想(江原由美子2001,『ジェンダー秩序』勁草書房,p416)とされる一方、「フェミニズムは『女性の自立』を強制する抑圧的な思想」(江原由美子・大橋由香子,2000,「浸透したがゆえの伝わらなさ」『インパクション』117インパクト出版会,p12-36.p18-20)とも思われているということです。女性が差別されている社会を問題視してる、ってことは、女性が不幸なのは社会のせいだから、たとえそれが自分の努力不足の結果であったとしても、女性であるせいだよね、という甘えがある。かと思えば、女性は男性と対等なのだから依存せず自立し強くあるべき、ということを押しつけてくる。という。

ジェンダー秩序 新装版

著者:江原 由美子

勁草書房( 2021/08/27 )

「矛盾」といえば他にも、フェミニズムは性的な快楽や表現全般を女性差別的だかと嫌う、とされる一方、女性も男性と同様性的なものを好み奔放であることを望む(女性が性的に従順であるジェンダー規範に背くため)ともされる、なども。

その昔、一般的にフェミニズムってどんなイメージなんだろ、と気になったことがあり、いわゆる大衆雑誌で取り上げられたフェミニズムの描き方を調べてみたことがありました。そこでも、フェミニズムはエロを嫌悪するという否定的なイメージで語られたり、「愛に近づくことの恐怖が、その人をフェミニストにしているようだった」(『新潮45』加藤尚武「特集一口女性論 ハカナク、ヲロカナルモノの拒絶」(1994/8))など、性愛(主に異性愛)そのものを嫌う(実際は性的魅力がない=性愛と縁がないなどの揶揄とセットになることが多い)存在として描かれる一方、「高らかにセックスをたのしみましょう!といわれると抵抗感がある。おしつけられているようで」(『ダ・ヴィンチ』大田垣晴子「オトコとオンナの深い穴 HOLE②女性の解放-フェミニズム考」(1999/8))と、抑圧への批判として過剰に性的である存在という語られ方もしています。

このあたりの「矛盾」は、実は、社会のしくみとともにじっくり考えれば、実際には何もおかしなことはない、ということはすぐわかります。理屈的にはいわゆるラディカル・フェミニズムとリベラル・フェミニズムの違い、とも言えますが、そもそも女性が差別される社会のしくみ(男性は差別されないのかって話ではなくあくまでそのしくみの話)を批判することは、性別にとらわれず対等に生きることを可能とすることを見据えてのことのはずで、言い換えれば、自立した生き方が可能となるためには、そういったしくみを問題視し、破壊することが必要、ということになります。

性に関することにしたって、女性が性や身体を自身でコントロールできない社会が問題なのであって、そうさせている社会を性差別として批判することと、そうできることを志向する行動は、つきつめて考えれば矛盾するものではないのではと思います。これらのことについて、栗田隆子さんが書かれている、「私は『自己決定』とは」「『まずもって、このことを決めるのはお前ではない』」と主張することを指すと考えます」(栗田隆子,2022,『呻きから始まる 祈りと行動に関する24の手紙』新教出版社,p233)という言葉が、フェミニズムの本来の意味を端的に示していると感じます。さらには、これまでデフォルトのように使われてきた「自立」は、家庭生活などでいわゆる「女性役割」であるケアに支えられ可能となる男性の「自立」を意味することを暴き、だからこそ、相互にケアも自分自身で判断し生きることも可能となる社会を、というアップデートを提案してきたのも、フェミニズムであったはずです。

呻きから始まる

著者:栗田隆子

新教出版社( 2022/09/22 )

しかしながら、先に挙げたようなフェミニズムの矛盾と思われているものを無視できない理由として、まず時として、自分がどの差別や問題を重視しているかによって、「フェミニズムは●●だ(であるべきだ)」の思いこみが強くなったり、教条主義的になったり、他者の思うフェミニズムの否定やそれへの衝突にしばしばつながったりするということがあります。フェミニストどうしの対立などはこれらに基づくことも多いです。

もっと厄介なことには、フェミニズムへの嫌悪やバッシングを行いたい者たちによって、その場その場で「フェミニズムは●●だ」のイメージがそれぞれ歪められた形で姑息に使い分けられ、嫌悪の根拠とされてしまうこともあります。冒頭で述べたように、フェミニズムを志向する個人のなかにも、実際自分はフェミニズム的なのだろうか、そうでないのだろうかという悩みや揺れ動きを生むこともあります。

フェミニズムの矛盾とされるところについてつらつらと書いてきましたが、こういった問題を流さず向き合ってみようと思うきっかけになったのは、私の中ではいわゆる第三波フェミニズムとの出会いでした。というか、私ががっつりフェミニズムを意識し始めた時期は、以前も書いたように、フェミニズムに少し違和感を持つ世代が出始めた時期で、それは「フェミニズムばなれ」の風潮にもつながったのかもしれないけど、ある種の、「わたしたちのフェミニズム」を考える動きにもつながっていたと思っています(で、私自身は、フェミニズムに潜り込もう、となったわけでしたが)。

こういった新しいフェミニズムの雰囲気は、その時期アクセスしはじめた社会活動(フェミニズムではなくセクシュアリティやHIV予防啓発方面)で出会う女性たちと共有することとなりました。そんな流れで、「第三波フェミニズム」という言葉をも知る運びとなったわけです。海外の第三波フェミニズムの本の読書会などもする中で、性暴力は許さないけれどもファンタジーとして暴力的なポルノに興奮し楽しむ(=「フェミニスト」に叱られそうな)自分との葛藤、消費社会や商業主義に則った大衆文化に欲望する一方でそれらが家父長制的資本主義を基盤としたものであることに悩ましい気持ちを持つ、異性との関係において女性役割や女性的価値をつい志向してしまう自分へのいら立ちなど、自分としっくりくるフェミニズムがそこにはあるように感じられました。

第三波フェミニズムとは、「第二波女性解放運動の盛り上がりのあとに生まれた政治的・世代的集団をおおざっぱに定義」(Piepmeier,Alison,2010, Girl Zines: Making Media, Doing Feminism, NYU Press.(=野中モモ訳,2011,『ガール・ジン 「フェミニズム」する少女たちの参加型メディア』太田出版,p26)「個人差や民族性、文化による違いを意識したもの、実践的なもの、多様性を意識しながら共闘する基盤を模索」(あくまで実践 獣フェミニスト集団FROG編,2007,『今月のフェミ的』pⅡ)ということだそうですが、フェミニズム理論としてはそもそも「波」を定義することも含め、使用に関し賛否ある表現ではあります。ただ、私の認識では、戦後の第二波フェミニズムに部分的には反発しつつ、フェミニズムのカバーする範囲(=個人的なことは政治的、で説明できる範囲)を多様化させつつ、自分たちなりのフェミニズムを模索していく動きのようなものとして、リアルに感じられた動きではありました。フェミニズムはこうあらねばならない、と思わなくてもよい、ここは好きでもここは嫌い、と言ってもよい、という、フェミニズムへの違和感に空いた風穴のようにさえ感じました。

ガール・ジン 「フェミニズムする」少女たちの参加型メディア

著者:アリスン・ピープマイヤー

太田出版( 2011/08/18 )

実際、さまざまな「フェミニスト」であろう方々と交流する中で、フェミニズムとしての意味は理解できても、意見が食い違うこともありました。あるとき、女性が性や身体を(男性中心主義的な社会に)価値づけされず、恥ずかしがらずに捉えられる場として、自身のプライベートな姿や欲望を語りさらけ出すことを求められることがありました。私にとってそれらは苦痛なことでした。精神や身体は(誰かではなく)自身でコントロールできる状態が自分を尊重するということだと思っていたので、そういう意味では、それらは私にとってはフェミニズム的ではなかったのですが、フェミニストならそうすべきなのか、という迷いもどこかにありました。

ところがうじうじしてたら、すぐに私以外の誰かが、「私はそういうの嫌だ」とはっきり言い放ちました。そうか!嫌なら嫌と言っていいんだ。私のフェミニズムと他の人のフェミニズムは違っていいのか、と目から鱗でした。そういうやりとりのひとつひとつが、私にとって第三波フェミニズムだったなあと思います。

こういった経験は、さまざまなフェミニズムの活動に関わっていく中で、ある視点を持つきっかけともなりました。第①回でも述べたように、その関心から、いわゆる古くから続くフェミニズム的活動に関わることとなったわけですが、そこで出会ったさまざまな経験には、第②回で軽く、またのちの回でも言及するような、インターセクショナルな調整が含まれていることに驚いたということがありました。皆が同じ方向を向いているわけではない、時として、相手のフェミニズムを批判しつつ、部分的につながり網の目のようにつながり、共鳴していくことこそが、フェミニズム的活動の醍醐味なのだという実感は、少なくとも私は、第三波フェミニズムを経たからこそ得られたような気がします。

第三波と第二波の境目や連続性のような経験もありました。例えば社会への抵抗を強く掲げるある活動の理念に、若い世代のメンバーが、それは自分を縛るものだ、古臭い、と批判の声を上げ、上の世代のメンバーは絶句するけれど、その後なぜそういった理念が生まれたのかの共有ののち、フェミニズムのすそ野を広げたり、新しい世代の意識や生活実態に即したりする形でこれかの活動に必要な視点をともに議論する、ということもありました。そういった経験は、対立して終わり、分断して終わり、ではないフェミニズムの未来への道筋を感じられるものだったと思います。そしてこれらは、あくまで第二波フェミニズムの活動のなかにすでにあったものでもあったと強く感じます。次回後編はもう少し、第三波フェミニズムの思い出を綴ってみたいと思います。