

夏の終わり、いいドキュメンタリー映画を観た。「ぼくたちの哲学教室」(原題:YOUNG PLATO、2021/アイルランド・イギリス・ベルギー・フランス)。
北アイルランド、ベルファストのアードイン地区に位置するカトリック系ホーリークロス男子小学校の4歳~11歳の男の子たちと、エルヴィス・プレスリーが大好き、柔術の黒帯をもつケヴィン・マカリーヴィ校長との、日々の哲学的対話のやりとりを、2年間にわたって撮影した記録だ。ケヴィン校長は教師たちと共に、子どもたちや保護者を相手に語りかけ、子どもたち自身が自分の言葉で話し、問いかけ、考え、理解して答えを見つけていく哲学の学びを試みる。子どもたちは、そこで学び、獲得した知恵を「生きる力」に変えて、やがて確かなポリシーをもって未来へと歩み出してゆく。
小学生に哲学を教える試みの背景には何があったのか。ブレイディみかこさんは、映画の公式パンフレットのコラム「哲学は何を変えることができるのか」の中で、「北アイルランドのベルファストが、過去も今も長い紛争と暴力に引き裂かれてきた街であったこと」を書いている。
アイルランド島は、750年に及ぶ英国の植民地支配のもと、自治をめぐり、英国との抗争を繰り返してきた。1920年、英国のロイド=ジョージ内閣により「アイルランド統治法」が成立。1921年、「英愛条約」に署名。1922年、南部26州は「アイルランド自由国」として独立、1949年、英連邦からも離脱する。しかしプロテスタント系住民の多い北アイルランド東部アルスター地方の6行政区は英国の分権政府として止まる。その後、北アイルランドでは独立派のカトリック系と英国残留を望むプロテスタント系の争いが絶えず、1972年、ロンドンデリーの「血の日曜日」事件など過激な紛争が続いていく。

1997年、英国にトニー・ブレア労働党政権が誕生。ブレアは、就任2週間後にベルファストで演説。IRA(アイルランド共和国軍)に向けて、「『解決の列車は間もなく発車する。私はあなた方にこの列車に乗ってもらいたいと思うが、列車はいずれ発車するので、あなた方を待つことはない』と暴力の停止を呼びかけた」と、ある。北野充著『アイルランド現代史 独立と紛争、そしてリベラルな富裕国へ』(中公新書、2022年9月)より。
1998年、アイルランドは国民投票、北アイルランドでは住民投票が行われて「ベルファスト合意」が成立。これをもってアイルランドは紛争の平和的解決のモデルを世界に示したとされる。今年は「ベルファスト合意」25周年だ。その後、IRAも段階的に武装解除を進め、2005年、自ら「武装闘争終結宣言」を「独立国際武装解除監視委員会(IICD)」に報告する。しかし今なお、テロは、なくなってはいない。
現在も、ベルファストではプロテスタント地区とカトリック地区を隔てる分離壁「平和の壁」が存在し、ホーリークロス男子小学校の地域は、犯罪や薬物乱用がなくならず、青少年の自殺率がヨーロッパの中でも一番高いとされる。
さらに2016年の国民投票での英国のEU離脱(ブレグジット)により、アイルランドと北アイルランドとの国境の壁が復活することになり、また新たな火種が生まれたのだ。2023年2月27日、英国とEUは北アイルランドの物流ルートの見直しに合意、北アイルランドとグレートブリテン島の物流ルールを修正し、アイルランドと北アイルランドの通商に、ようやく決着がついた。
そんななか、ホーリークロス男子小学校の子どもたちには希望がある。
廊下で喧嘩を繰り返す2人の男の子たちを見かけると、ケヴィン校長は、さりげなく対話をもちかける。2人を交えて3人で話し合う。始めは互いに文句を言い合っていた2人も、次第に何が問題なのかを自分たちなりに考え、その解決方法を自分の言葉で返していく。違う意見をもつ相手の言い分を、よく聞き、考えた上で自分の意見が変わることもありうるという体験をする。そんなやりとりのなか、喧嘩をしていた2人の表情が、ふわーっと和らいでいくのが、よくわかる。そうして仲良くなった子どもたちの顔が、とっても可愛い。
ケヴィン・マカリーヴィ校長へのインタビュー。2023年2月20日、ホーリークロス男子小学校にて。聞き手の石橋秀彦(doodler)によると、ケヴィン校長は、4つのRを大切にしていると語る。Reflect=考える。Reason=理解する。Respond=答える。Re-evaluate=再評価する。その言葉のもつ意味が、このワンシーンから、とてもよく伝わってくる。
ケヴィン校長は、セネカ、エピクテトスなどギリシャのストア学派を通じて「Anger Control」(怒りのコントロール)の10の方法を教える。たとえば子どもたちがストレスを感じている時は、「しばらく目をつぶってごらん。頭の中に君が一番好きな場所を思い浮かべてみて」という。すると子どもたちの頭の中に思い描いたイメージが広がっていくにつれ、彼らの表情が、だんだんと穏やかになっていくのが、よくわかる。
ケヴィンは彼のマントラ「Think, Think, Respond!」(考えて、考えて、答える!)を用いて、彼自身が経てきた「哲学の旅」を子どもたちに惜しみなく伝えていく。子どもたちはみんな、Young Plato(若い哲学者)なのだ。
前述の北野充著『アイルランド現代史 独立と紛争、そしてリベラルな富裕国へ』によると、アイルランドは1994年~2008年、Celtic Tiger(ケルトの虎)と呼ばれる高度経済成長期を迎える。
「マースリヒト条約」の調印により、1993年、EU(欧州連合)が成立。アイルランドもEUに参加。人、モノ、サービス、資本が自由に行き来できるヨーロッパの単一市場に向けて、アイルランドは外国企業の進出を迎え入れる。アップル、マイクロソフト、インテル、モトローラ、デル、ヒューレットパッカード、IBMなどがアイルランドに拠点を置き、日本の製造業も進出した。そしてアイルランドは遂に西欧の最貧国から一人あたりGDP世界第2位となったのだ。
2008年のバブル崩壊後のアイルランド経済の立ち直りも速かった。2013年にはアイルランドは、EU・IMFの経済支援から「卒業」を果たし、2014年から再び成長軌道に乗ったという。
その間、1990年、女性大統領メアリー・ロビンソンが誕生。1995年、離婚合法化の憲法改正が国民投票で可決。1997年、メアリー・マーカリースが、後任の大統領に就任。2015年、同性婚を認める憲法改正が国民投票で可決。2018年、妊娠中絶を認める憲法改正が国民投票で可決と、次々に改革していくのが、ほんとにすばらしい。若い政治家の活躍と女性リーダーの力と、それを後押しする国民の賛同の声によって。
現在、アイルランドを特徴づけるのは「多様性の尊重」と「経済成長」の双方向性だという。マイノリティの保護・尊重と女性の社会進出も、また同じ。世界経済フォーラム「ジェンダー・ギャップ指数(2022)」でアイルランドは9位、日本は116位なのだ。なんかもう、日本とはずいぶん違うなあ、どうしようもない日本の政治家たちと、それに反対の声を上げない国民も含めて。
その背景には「やられたら、やり返せ」ではなく、「どんな意見にも価値がある」とする、異なる視点への共感を生み出す「多様性」の尊重がある。それを子どもの時から育てていくことの大切さを、この映画は私たちに教えてくれる。
コロナ禍のパンデミックの間も撮影は続く。対面授業とオンライン授業を経験した子どもたちは、その両方のいい面を学んだという。しかしフェイクニュースに惑わされてしまうこともある。それを防ぐためには何が必要か。言葉を、自分の頭で、きちんと読み解いていく「情報リテラシー」の大切さを、この映画は、子どもたちに、そして私たちにも伝えてくれた。
アイルランドはギネスビールやアイリッシュ・ウィスキーが、とびきりおいしい。京都の御池通り、川端のほとりにあったアイリッシュ・バーへ、よくギネスビールを飲みに行ったっけ。そしてアイルランドの文学といえば、イェイツやジョージ・バーナード・ショー、サミュエル・ベケット、シェイマス・ヒーニーの4人が、ノーベル文学賞を受賞している。映画だって、ジョン・フォード監督、ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ、ピーター・オトゥールなど数えきれない名優たちがいる。そしてアイリッシュダンスのワクワクするリズム感と、世界に名だたる強豪・ラグビーの大活躍も、ある。
2009年、男友だちが一人旅でアイルランドの旅に出た。漁民たちのアラン編みで有名なアラン諸島へ渡り、アイルランド各地を自転車で回って、Barを飲み歩いたという。ああ、私も、いつかアイルランドに行ってみたいなあ。
「ぼくたちの哲学教室」の子どもたちは、将来、どんな成長を遂げていくのだろう。これからの世界を担うのは、きっと彼らのような若い力なのだと、心からの応援と期待を寄せつつ、あの少年たちの明るい表情のもとになった「哲学」の、深ーい意味を、もう一度、考えてみたいなと思った。
「ぼくたちの哲学教室」
© Soilsiú Films, Aisling Productions, Clin d’oeil films, Zadig Productions,MMXXI
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