渋谷のデパ地下の総菜屋に大きく書かれていました。その店の3つの特徴だそうですが、「ひとつ 地元の新鮮な野菜を使っている、ふたつ お母さんの味、みっつ この店の中で全部調理している」、という内容でした。

 お母さんの味にひっかかりました。お母さんの味ってどんな味でしょうか。「お母さんの味」といえば、すぐわかるような一般的な味があるのでしょうか。 お母さんと同義語の「おふくろ」「母」を使った「おふくろの味」も「母の味」も同じです。レモンの味、わさびの味といえばだれにでもすぐわかりますが、「母の味」ってどんな味ですか。

 「子どものころ、母が作ってくれた、ハンバーガーの、少し甘めのソースの味」とか、「65歳の母が料理した、だしのきいた吸い物の味」とかいうのでしたら、よくわかります。「私の」母の「あの時の」味という限定づきの味だからです。

 「母の味」が気になっていたとき、「具は自由 包み込む母の味」という見出しの新聞記事が載りました(朝日新聞2023/11/24)。日本にすむ中国人梁宝璋(りょうほうしょう)さんが東京・神田で営む中国料理の店を紹介する記事でした。現地そのままの味の料理を出す店のはしりだそうです。母の味を包み込む料理ってどんな料理だろうと読んでいくと、中国残留孤児だった梁さんのお母さんは、「小麦粉の料理が得意で、中でも餃子の皮はモチモチで絶品」だったそうで、手早く季節の野菜などで具を作って包んでくれた、具の素材は自由だった、その味を梁さんが日本で開いている中国料理店でも提供しているということでした。

 ちょっとわき道にそれますが、中国残留孤児ということばは、私は使いたくありません。まず、「残留」のことばです。新聞で「残留」の使い方の例を調べると、「ノイジー選手の残留は大きいです」(朝日2023/11/21)のように、誰かが自分の意思でそのまま残る意味で使われています。戦前中国に渡り、敗戦後故郷に帰れなかった梁さんのお母さんたちは、自分の意思で残りたくて残ったのではありません。いろいろな事情で帰りたいのに帰ることができなくて残されたのです。残留させられたのです。「残留孤児」というと、自分の意思で残った孤児の意味になってしまいます。さらに「孤児」の語もふさわしくありません。梁さんのお母さんは中国の養父母に育てられました。養母が亡くなったので日本帰国を決意したと書かれています。ですから初めは孤児だったかもしれませんが、すでに「孤児」ではなく、養父母の子供として育てられた人です。「孤児」と言い続けるのは、育ててくれた養父母に失礼です。

 こうした二重の意味で問題があることばをいつまでも新聞が使い続けるのは問題です。

 さて、「母の味」にもどります。「包み込む 母の味」の「母の味」は、梁さんのお母さんのモチモチで絶品の餃子の皮の味だったのです。その味を息子が東京の店で再現ようとしている、こういう背景で使われている「母の味」ならよくわかります。

 具体的な誰かの母の、その母が作った特定の料理のその母の独特の味のことを言う場合は、「母の味」OKです。

 ですが、冒頭の総菜屋さんの「お母さんの味」のような使い方は困ります。誰のお母さんかもわからないし、そのお母さんのどんな味かもわからないのですから。ですから「お母さんの味が売りだ」、「母の味がする店」、「おふくろの味が恋しい」などはNGです。実態がわからないからです。実態がわからないのに、なんとなく分かった気にさせる表現ですからよけいにNGです。

 「お母さん」「母」「おふくろ」はなんとなく懐かしい、好ましい、甘くやさしい、慕わしい、深く大きい、イメージを表すことばとして使われることが多いです。

 しかし、「お母さん」「母」「おふくろ」の、なんとなくの漠然とした、得体のしれない、暖かそうな、包容力の大きそうな、甘えられそうなイメージが独り歩きしてしまうと大変なことになります。甘えたい、許してもらいたい、包み込んでもらいたい人にとって、「お母さん」「母」「おふくろ」は絶好のシェルターになってつきまとわれます。クワバラ、クワバラです。「母の味」は決しておいしいものではないことを肝に銘じましょう。