冬のある日、京都三条の文化博物館・映画の本コーナーで、またまたスゴイ本を見つけた。
四方田犬彦著『さらば、ベイルート ジョスリーンは何と闘ったのか』(河出書房新社 2022年5月)。
ほとんど目次も見出しもない、全編書き下ろしのノンフィクション。まるで映画のシーンさながら、流れるように一気に読み終えた。文章の力と、中東の歴史に惹きつけられ、何度も読み返すたびに新しい発見がある。
帯には「中東から西サハラへ、さらにヴェトナムへ、瓦礫のなかで女性たちの人生を見つめ、歴史の証言者たろうとした、レバノン・ベイルート生まれのドキュメンタリスト、ジョスリーン・サアブは、パリを拠点に世界中を駆けめぐる。そして骨髄を癌で犯され余命いくばくもない彼女から、わたし(四方田犬彦)は、最後の作品への協力を依頼される。それは元日本赤軍幹部・重信房子と娘メイの、母娘の絆の物語だった」とある。
ジョスリーンは死に瀕していた。「わたしの人生は砂のように両の手から零れ落ちてゆくのよ」。
四方田犬彦は大学を退職し、パリ・カルチェラタン、セーヌ河畔のアパルトマンに、しばし滞在する。アンリ・マチスが住んでいたという螺旋階段を登り切った屋根裏部屋に下宿し、日本文化会館での日本映画の上映と解説を頼まれる。その映画上映会でジョスリーンと出会う。
ああ、そういえば私の大学時代の女友だちが、ソルボンヌ大学に留学していた1968年、パリ5月革命のさなか、機動隊に追われて駆け込んできた学生を部屋に匿ったと聞いた。私も1995年、カルチェラタンの「ソルボンヌ」という一つ星の安宿の屋根裏部屋に泊り、宿のオーナー一家の赤ん坊と猫のなき声を聞きながら数日、過ごしたことがある。確か宿賃は一泊2000円くらいだったかな。
目的は、パリ・マドレーヌ広場のFAUCHONの前で写っているポストカードの猫に会いたくて。FAUCHONの女主人に「この写真の猫、いませんか?」と尋ねたら、「ああ、この猫ね。しばらく前までバンドネオンのおじいさんといっしょに、ここにいたわよ」と教えてくれた。残念ながら猫ちゃんには会えなかったけれど。
中東紛争とは、1948年のイスラエル国家成立で始まったアラブ諸国とイスラエルの間の武力衝突。これまでに第一次中東戦争(1948年~49年、パレスチナ戦争)、第二次中東戦争(1956年、スエズ戦争)、第三次中東戦争(1967年、六日戦争)、第四次中東戦争(1973年、ラマダーン戦争)と紛争が続く。
1948年生まれのジョスリーンは中東紛争の節目、節目に立ち会ってきた。1982年、イスラエルのレバノン侵攻(レバノン戦争)ではジョスリーン自身、150年の歴史がある自宅のサアブ邸を爆撃で焼失する。そして第五次中東戦争とも言える2023年10月7日に始まったハマスとイスラエルの衝突は、ヨルダン川西岸とガザ地区(パレスチナ自治区)へのイスラエルの「ジェノサイド」とも言うべき戦闘が今も続いている。
ジョスリーンが最初にカメラを回したのは22歳の時。ベイルートのセント・ジョゼフ大学に通っていた頃。その後、パリのテレビ局に籍を置き、リビアのカダフィ大佐やPLOのアラファト議長に突撃インタビューをし、1972年5月、日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件にも遭遇したという。爾来、日本赤軍に関心を示すジョスリーンに、四方田犬彦は資料をかき集めて彼女に説明する。
1968年以降、日本の学生運動は大きく変化していく。1969年8月、共産主義者同盟赤軍派が結成され、「武闘闘争あるのみ」と過激化していったこと。1970年3月、赤軍派は「よど号」ハイジャック事件を起こし、北朝鮮へ。1971年2月、重房信子は「世界革命」を目指し、ベイルートへ渡る。1972年2月、「あさま山荘」連合赤軍事件を契機に、同1月、山岳アジトで遠山美枝子らが殺されていたことが発覚。遠山美枝子は重信房子と同じ下宿で暮らしていた女友だちだった(リブは今も生きている(旅は道草・153)。そして1972年5月、テルアビブ・ロッド空港事件で日本赤軍兵士3名がイスラエル兵士と銃撃戦を闘う。
1973年3月、重信房子は娘メイを出産。同5月、山口淑子がベイルートに重信房子を訪ねてインタビューをしている。1974年9月、ハーグのフランス大使館占拠事件が、日本赤軍とPFLPの共同作戦とされ、重信房子がその最高幹部と見なされ、国際手配される。その後、重信は2000年、密入国で大阪に滞在していた時、逮捕され、懲役20年の刑を受け、2022年5月、刑期満了で出所した。
あれからもう50余年、学生運動が吹き荒れる少し前に学生時代を送った私は、ひとごとではない思いで必死に報道を追いかけていた。元夫は大阪市立大学の社学同(ブント)のシンパで、「よど号」ハイジャック事件のリーダーだった田宮高麿と、山岳アジトで同志を死に至らせた森恒夫と同級生だった。「よど号」をハイジャックした田宮高麿らは途中、韓国の金浦空港に立ち寄るなど、さまざまな紆余曲折の後、目的地の北朝鮮・美林飛行場に到着させた。「なぜか田宮は何をやっても、うまくいく男だったな」と、事件を知って元夫はボソッと言った。「森恒夫はリーダータイプではなく、いい裏方だったからな」とも語っていた。田宮高麿は北朝鮮で病死し、森恒夫は獄中自殺を図り、二人は、もういない。
私の学生時代はまだのんびりとした時代だった。豊中の待兼山にあった阪大の新聞会の部室には、ブントや革マル、中核、第四インター、果ては山村工作隊崩れの新聞記者の先輩まで出入りする、セクトが仲良くたむろする日々だった。私なんか、「女の子」扱いされて歯牙にもかけられなかったけれど。
ジョスリーンは「わたしは決意したのよ。これから最後の映画を撮る。どんなに軀が衰弱しようとも絶対に映画を撮る。それは重信房子と娘のメイを描くものになるはずよ」と断言する。
四方田は彼女に協力して、足立正生と若松孝二が撮った赤軍派のドキュメンタリー映画を解説し、重信房子の『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬社、2001)や重信の歌集『ジャスミンを銃口に』(幻冬社、2005)などを訳して彼女に手渡す。
四方田の仲介で、獄中の重信房子も娘のメイも、ジョスリーンの映画化を了解し、ベイルートで、メイとジョスリーンは二度、面会をしている。
ジョスリーンのシノプシス(映画の概要)が四方田に送られてくる。獄中の重信房子の撮影は不可能なので、アニメで描くのはどうかと彼女は提案する。『わたしの名前はメイ・シゲノブ』という7分間のメイへのインタビューによる短編を仕上げた途中で、2019年1月7日、ジョスリーンはパリの病院で急逝した。
映画の完成を待つことなく、2022年5月に出所した重信房子に会うこともなく、逝ってしまったジョスリーンに代わって、四方田犬彦は、このアラブの女性監督のフィルムを機会あるごとに日本で紹介していこうと決意する。
「あとがき」で四方田犬彦は「ジョスリーンは何に対して闘ったのか。彼女が敵としていたのはイスラエルのシオニストでもなければ、エジプトやモロッコの官憲でもなかった。ジョスリーンが生涯かけて抗ったのは記憶の消滅、すなわち忘却であった」と明言する。
この本が出た1年後の2023年10月7日、またもや中東戦争が起きてしまった。なぜ人々は、こんなにも憎しみあうのか。
過去の、決して忘れてはいけない出来事がある。そしてそれに抗い、闘った人たちがいた。そのことを誰かが記録して後世の人々に伝えてゆく。それを受け取った私たちもまた、自分の言葉で次の世の人々へ伝えていかなければならない。
「記録」とは、人々の「記憶」を、なかったことにさせないために記されていくものだから。そのことを、この本は確かに私たちに教えてくれた。その思いを大切に胸に受け止めつつ、最後の頁を、そっと閉じて読了した。
FAUCHONの猫(c)Yukie Yoshiba HEART CREATION