あの時代、同じ思いを生き、どこかですれ違っていたかもしれない女たちの本を読む。「モナ・リザスプレー事件」の米津知子を追う荒井裕樹著『凛として灯る』(現代書館 2022・6・23)と、榛名山の山岳アジトで連合赤軍のリンチによって殺された遠山美枝子を描く江刺昭子著『私だったかもしれない ある赤軍派女性兵士の25年』(インパクト出版会 2022・6・10)の2冊。

 3歳の時のポリオ後遺症で右足が麻痺、補装具をつけた米津知子は、多摩美の学生運動の中でリブと出会い、1970年、女のグループ「思想集団エス・イー・エックス」を結成。1972年~1977年、田中美津らと「リブ新宿センター」に参加する。そんな中、1974年4月、東京国立近大美術館で「モナ・リザ展」が開催される。主催者が、「混雑が予想されるため、付添いが必要な障害者や老人、赤ん坊づれは観覧を遠慮してほしい」と発表したことに怒った障害者団体が抗議し、それを受けて別の日に1日、「身障者デー」を設けたことに怒りを覚えた米津知子は、開催初日、モナ・リザのガラスケースに赤いスプレーを噴射する。器物損壊容疑で即、逮捕。1975年12月、最高裁は上告を却下、科料3000円の刑が確定する。彼女は1円玉をかき集めて3000円を支払った。

 1972年5月、優生保護法改「正」案が国会に上程される。「経済的理由条項」の削除と「胎児条項」を新設するものだった。怒ったリブの女たちは、「産む・産まないは女が決める」と全国に反対運動を展開する。障害者たちの反対運動と共に、二度の継続審議の後、1974年6月、審議未了で廃案となる。だが、その10年後の1982年、自民党・村上正邦議員(生長の家政治連合)が、「胎児条項」には触れないまま、「経済的理由条項」の削除を再び求めたが、またまた全国的な反対運動が盛り上がり、1983年3月、法案提出は見送られた。1982年の改「正」案に「胎児条項」がのぼらなかったのはなぜか。1976年から進められてきた母子保健法改悪に「胎児条項」が、きっちり組み込まれていたからだ。優生保護法第1条「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という目的は、羊水チェックなど出生前診断によって着々と進められてきていたからだった。

 米津知子は、リブの立場と「青い芝の会」など障害者解放運動との間に自らの立ち位置を置き、粘り強い運動を続けた。1982年発足の「SOSHIREN 女(わたし)のからだから」の通信は、今も続いている。1980年代前半、京都の婦人民主クラブが、優生保護法改悪阻止を闘うなか、米津さんを部落解放センターにお呼びし、講演をお願いした時も、もの静かで淡々とお話をされる人だった。私自身、当時、同志社大学チャペルアワーで出会った車椅子の障害者から誘われ、「青い芝の会・京都」グループ・ゴリラの学生たちと共に、一介護者として子連れで障害者解放運動にかかわっていたので、リブと障害者運動の狭間で闘う米津さんに共感しつつ、じっと聞き入っていた。


 もう一人の遠山美枝子は明大夜間部に在学中、赤軍派に参加。大学闘争や成田闘争を経て、1972年1月7日、榛名山の山岳アジトで「総括」と称するリンチによって死亡。その前夜、1969年11月、大菩薩峠事件で塩見孝也ほか赤軍派幹部が逮捕され、1970年3月、田宮高麿らによる「よど号ハイジャック事件」の後、残った森恒夫や永田洋子らが榛名山や妙義山で山岳アジトを組む。その後、1972年2月、あさま山荘事件を経て、山岳アジトで12人がリンチ殺害されていたことが発覚する。

 遠山美枝子は一時、運動仲間の重信房子と生活を共にしていた。1971年2月、パレスチナに赤軍派の海外拠点をつくるため、日本を出国する重信房子を羽田空港で見送っている。江刺昭子の本にも重信房子の「断章 追憶の遠山美枝子」が写真とともに載っている。

 オランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」など殺人未遂罪で服役していた重信房子は、2022年5月28日、20年の刑を終えて出所。この10月16日、京都・円山野外音楽堂・第16回「反戦・反貧困・反差別共同行動in京都 軍拡・改憲を阻止する大衆運動の構築へ」(長いタイトルだなあ)で、重信房子の特別挨拶「新しく社会に参加するにあたって」が予定されている。

 1960年代末、成田闘争が激しく闘われていた頃、私の元夫は新米の新聞記者として千葉支局に赴任。成田に行ったっきり、全く帰ってこない。大学でブントのシンパだった彼は取材そっちのけで反対同盟側に立ち、機動隊に石を投げていたらしい。その中に大学の同級生の森恒夫がいた。「彼はリーダータイプではなかった。裏方だったからな」と、後の事件や彼の獄中自殺を知ってボソッと言った。「よど号ハイジャック事件」を起こした田宮高麿も大学の同期。「何をやっても彼は不思議と、うまくいく男だった」と語っていた。その時、私は子育てに追われて身動きもとれず、事件をテレビや新聞報道で、ただ追いかけるしかできなかったことを思い出す。

 1967年10月8日、第一次羽田闘争で虐殺された山崎博昭の事件から55年。事件を描いた「きみが死んだあとで」の映画も上映された。山崎博昭も遠山美枝子の母も東大全共闘の山本義隆も、私も同じ大阪の大手前高校出身。1960年6月15日、高校2年で安保反対闘争・御堂筋デモに行った帰り、樺美智子さんの死を知ったのは、はるか昔の60年以上前のことだ。


 私の、遅れてきたリブとの出会いも45年前に遡る。1977年、ガンを患った義母の看護のため、自ら望んで千葉から京都へ移り住み、看護と家事に追われるなか、家族以外と話すのは商店街の魚屋さんか八百屋さんのおじさん、おばさんだけ。そんなある日、新聞の片隅に載った女のスペース「シャンバラ」のことを知る。2月の大雪の日、自転車に乗って京都・円町の地下にあった「シャンバラ」に出かけた。地下室へ降りる狭い階段の壁には女の人の絵が大きく描かれていた。たまたま来ておられた三木草子さんと門野晴子さんとお会いできたことが、その後の私を大きく変えた。なんて輝いている女たちなのだろうと思った。シャンバラ・シスターズも、みんな厳しくも優しかった。シャンバラはその後、解散して「OKAIREN」と「とおからじ舎」に別れたけれど、なお女たちの運動は続いている。

 その後、1991年、ウイメンズブックストア松香堂の中西豊子さんに誘われてフェミネット企画で編集した最初の仕事が、資料『日本ウーマン・リブ史』全Ⅲ巻(溝口明代・佐伯洋子・三木草子編 松香堂書店 1992~1995)だった。枕になるような大部な3冊。『リブ史』も、その前の、ボストン女の健康の本集団著 監修/藤枝澪子 校閲/河野美代子・荻野美穗『からだ・私たち自身』(松香堂書店 1988)もまた、中西さんの心意気で生まれた本だ。よくぞ出版してくださったとの思いで、今も感謝しかない。ビラ1枚1枚を記録し、確かに、リブがそこにあったことを、そして今も続いていることを残してくださったのだから。

 とりわけⅡ巻(1972~1975)には、米津さんたちのリブの運動が凝縮されている。松本路子さんのすばらしい写真と共に。当時、本の印刷は写植だった。紙を切り貼りして校正する。編者の方々と喧嘩をしながらケンケンガクガク、わいわい楽しく編集作業をしていた。ビラに込めた女たちの「燃えるリブ」の思いが、いっぱいに詰まっている。WANの「ミニコミ図書館」のアーカイブで、若いみなさんに、ぜひ読んでほしいと願っている。

 ゲラを見ていてクスッと笑ってしまったことがある。「東京こむうぬ」の章。私の女友だちが成田闘争に小さな子ども連れで闘いに行った帰り、「このまま夫と別れて、子どもと、ここで暮らそうか」と思って、女の共同スペース「東京こむうぬ」に立ち寄ったとか。ところが部屋に入ると畳の上に山積みのおむつがいっぱい。「ちょっと私、ここでは住めないかも」と思い、諦めて京都に帰ったという。

 あれから50余年。女の性は本当に女のものになったのだろうか? 2022年6月24日、アメリカ連邦最高裁は「州の妊娠中絶禁止措置」を認める判決を下した。1973年、中絶を憲法上の権利とした「ロー対ウェイド」判決は、ウーマン・リブが勝ち取った中絶の権利だった。それを連邦最高裁が違憲としたことに対して今、全米で女たちの怒りと抗議の声が巻き起こっている。

 日本もなお明治時代(1907年)から続く堕胎罪が生きている。ただ母体保護法によって一定の条件を満たせば中絶は認められているが、その条件は、①身体的・経済的理由により母体の健康を損なう場合。②暴行や脅迫によるレイプによって妊娠した場合。ただし①の場合、「配偶者の同意」を必要とする。「配偶者の同意」が必要というのは世界203カ国のうち、11カ国のみ。

 「産む、産まない、を決める権利は女性の基本的人権である」としたリプロダクティブ・ヘルス/ライツが、1994年、国連国際人口開発会議で提唱された。2016年には国連女性差別撤廃委員会が、日本政府に「配偶者の同意条件の撤廃」を勧告したにもかかわらず、ようやく2021年3月、厚生労働省はドメスティック・バイオレンスなどで婚姻関係が事実上、破綻し、同意を得ることが困難な場合に限って「同意条件を不要」とする方針を示した。日本産婦人科医会から各都道府県産婦人科医会に通知されたが、「対応が進んでいるとは言い難い」として、2022年3月28日、三鷹市議会は、国及び政府に「人工妊娠中絶における配偶者同意の撤廃を求める意見書」(地方自治法第99条の規定により)を提出した。「産む、産まないは女が決める」は、はるか50年以上前にリブが主張してきたことなのに。

 先日、映画「プリンセス・ダイアナ」を見た。ダイアナの死から25年。過去のニュース番組で構成したドキュメンタリー。その中で、当時のチャールズ皇太子がインタビューに答えて、「なぜダイアナと結婚したのか?」「世継ぎを産んでもらうためだ」と真顔で語っていたのだ。もう、うんざり。

 1986年5月、ダイアナが京都を訪れた時、二条城北側にある「ひまわり幼稚園」に立ち寄られた。遠くからお見かけすると、グーンと背が高く、真っ赤な水玉模様のドレスが、とってもよくお似合いのステキな方だった。1997年8月31日、パパラッチに追われて36歳で事故死した翌年の同じ日、イギリスへの旅でバッキンガム宮殿を訪れると、花束をもち、哀悼の意を示す人々の列が延々と続いていたことを思い出す。彼女を「殺した」のは一体、誰なのか?

 ウーマン・リブの波が世界中に巻き起こって50余年。日本は日本なりのリブの闘いがあった。これからもなお女たちの闘いは続く。少しずつ少しずつ前進していこう。リブはいつも私たちの胸に生き続けているのだから。