今月は今シリーズ最終回、イギリス人のレベッカ・クラーク(RebeccaClarke)をお送りします。1886年、イギリスのハーロウに生まれ、1979年、アメリカ合衆国ニューヨークで亡くなりました。イギリスには同世代にエセル・スマイスがおり、婦人参政権運動に大きく貢献し、女性たちの賛歌 ”ウィメンズマーチ”を作曲しました。

 父ジョセフはアメリカ人の建築家でイーストマン・コダックで働いていました。母アグネスはバイエルン出身のドイツ人です。父親はチェロ、母親はピアノをたしなみ、レベッカは長女で、他の3人も父の指導のもと音楽を始めました。

 一見は教育熱心な普通の家庭に見えたクラーク家では、実は父親が子どもたちに暴力をふるう人物でした。狩猟の趣味があり、とりわけ獲物が捉えられなかった日は代わりに子供たちに手を上げ、時には固いスチールの定規も使いました。一方で母親は一見良き家庭人でしたが、決して子どもたちを助ける日はなく沈黙を守りました。


 父親は家族で室内楽を楽しみたいと思い、息子と、次いでレベッカにバイオリンを習わせました。レベッカは音に感応して泣き出すこともあるほど感性が鋭く、クラーク家は父のチェロ、母のピアノに子どもたちの弦楽器が加わり、定期的に室内楽を始めました。

 1903年、17歳で王立音楽院(the Royal Academy of Music)に入学し、バイオリンを専攻します。彼女の才能を認めた先生たちの勧めでした。このロンドンにある名門校は、レベッカに広範囲に渡り大きな学びをもたらします。しかしながら、ほどなく和声学の教授に見染められプロポーズをされると、父親の逆鱗に触れ、即刻退学させられます。

        王立音楽院


 しばらく実家に戻り、父親とは言い争いを繰り返しつつ作曲に興味があることを訴えました。父親は知己のいた王立音楽大学(The Royal Collage of Music)の作曲教授スタンフォードに娘の小品を送り、意見を仰ぎました。教授はホルストやヴォーン・ウィリアムスを輩出した名教授であり、レベッカも幸い受け入れられ、数少ない女子学生の作曲専攻でした。

 スタンフォード教授は、その後レベッカにビオラを学ぶよう勧めます。ビオラはオーケストラで内声部を受け持つ楽器であることから、作品全体がどう響くかを聞く訓練になると諭しました。先生の紹介で高名な指導者に恵まれ、めきめきと頭角を現します。レベッカは一生涯スタンフォート教授をメンターとして尊敬の念を抱きます。

 ここで、再び父親との大きな争いが起きます。彼女自身の道ならぬ恋に怒り狂った父親がレベッカを家から放り出したという説と、父親の不倫相手の手紙の束を見つけたレベッカが、父の部屋に束をうず高く積み上げ、暗黙の批判で対抗し、父親の怒りを買ったという説があります。1910年、父親との長年の緊張関係から遂に家を出ました。父親とは生涯二度と会いませんでした。

 小さなアパートに2年ほど暮らし、仕事は何でもしましたが、ビオラの腕前は一流で、自立2年後には数少ない女性奏者として著名なオーケストラに入りました。その後はヨーロッパ各地を演奏して歩きます。当代きっての名奏者たち、例えばマイア・ヘス、ティボー、カザルス、シュナーベル、ルービンシュテイン、後年は作曲家・ピアニストだったモーリス・ラベルとも室内楽で共演するほどの腕 前でした。作曲を続ける傍ら、アメリカ合衆国に演奏にも出かけました。父親の縁から親戚もおり、弟2人もアメリカで生活していました。

 1916年には拠点をアメリカに移し、1919年にはアメリカ在住の篤志家E.クーリッジ夫人後援の作曲家コンクールで「ビオラソナタ」を提出しました。比類なき素晴らしい作品に下馬評は高かったのですが、審査結果は同点、夫人はスイス系ユダヤ人のブロッホ(E.Bloch,1880-1959)に栄冠をもたらします。

 この背景には、夫人がレベッカのパトロンだったため世間の評判を怖れたこと、また、何よりも、これほどの素晴らしい作品を女性が書けるはずはないという当時の社会認識により、ブロッホに白羽の矢を立てたと言われています。加えて、レベッカの名前は実はブロッホの偽名ではないか?という審査員さえいた時代でした。

 ビオラソナタの持つ高い芸術性は評判が評判を呼び、レベッカの認知度が高まりました。作品はバークシャー音楽祭で初演されます。その2年後の同コンクールでは「ピアノ三重奏曲」を、さらに2年後は「チェロとピアノのためのラプソディ」で注目を浴びました。レベッカの作曲活動のピークに書かれたこれらの作品は、忘れ去られた時代を経て、現在では高い評価を受けています。

 同世代のフランスのメル・ボニス(1858-1937)は、女性に作曲ができるはずがないという世間の認識により本名のメラニーから中性的なメルに変え、偏見から身を守った好例と言えるでしょう。

1918年、女性チェリストとのリサイタルのチラシ。プログラムには、一時使用していた偽名(A. Trent)での作品Morpheus が見える


 それでも、レベッカは奏者と作曲家として、どちらの分野でも活躍を続け、生涯でおよそ100の作品を書きました。本来はイギリスはいつでも帰れる故郷と思っていましたが、第二次大戦が始まるとアメリカにとどまり、そのまま生涯アメリカで暮らしました。

 前述の作品の他にも、「古いイギリスのメロディによるパッサカリア」「バイオリン、ビオラ、ピアノのためのドゥムカ(Dumka)」等の、鮮烈な素晴らしい作品を残しました。後年は東欧のバルトークやマルティーヌの民族音楽を使った技法にも影響を受けました。また歌曲も多く手がけ、若い時代の作品「Shy One」はアイルランドの詩人イェイツの詩に曲を付けています。

    夫のジェームズ・フリスキン

     レベッカのピアノ独奏譜の表紙


  アメリカの生活では、王立音楽院の旧友 J.フリスキンとばったり再会し、1944年、58歳で結婚します。そんな日が来ることは想像もしていなかったが、よく考えると以前から彼なら結婚したいと思っていた自分に気が付いたそうです。夫はピアニストで作曲家。とりわけJ.S. バッハの演奏に定評があり、ジュリアード音楽院の教授でもありました。この結婚は彼女の心に平安をもたらしたそうです。

 レベッカは音楽学者のインタビューと自身のメモワール(未出版)で、絶えず父親から暴力があったこと、その手は痛かったと回想しています。レベッカには気分変調〜抑うつ的な傾向があったと、音楽学者は語っています。ただでさえ一つのことしかできない自分には、作曲は年齢とともにしんどくなったとは、ご本人の弁です。

 女同士の友情、エセル・スマイスとは時を忘れて語り合える親しみがあり、ポルドフスキ(ウィニアフスキの娘で作曲家)はレベッカのコンサートを主催し、ロンドンで同窓だったマイラ・ヘスとは、ティ―ンの頃からきつい冗談で人を風刺し、私たちは悪い娘だったわと回想しています。コンサートで共演してくれたそうです。

 この度の作品演奏は、「ピアノのための主題と変奏」パート1から抜粋でお聞き頂きます。

 ピアノ独奏譜は2022年に、やっと出版の日の目を見ました。1908年作、スタンフォード門下のコンクール受賞作品。賞金は半期の授業料を払える額をもたらしました。

 今回をもちまして第4シリーズを終えます。お読みいただきありがとうございました。いずれの日にか第5シリーズをお待ちいただきますよう、今後ともよろしくお願いいたします。

石本裕子


参考文献
The Rebecca Clarke Society | Rebecca Clarke Society
2000年に設立された財団ホームページ。この中で全ての資料や写真が閲覧できます。
下記は彼女の肉声が聞けるインタビュー動画。忘れられていた彼女の作品を再認識するきっかけとなるラジオ放送インタビューです。
Rebecca Clarke interview with Robert Sherman (WQXR Radio), 1976, unedited
パッサカリア:
Rebecca Clarke: Passacaglia on an Old English Tune | Amber Archibald,
ビオラソナタ:Rebecca Clarke- Viola Sonata [With score]- YouTube
歌曲 Shy One: Rebecca Clarke- Shy One for Voice & Piano (Score video)- YouTube