「房思琪」の前と後
これまで少なからぬ中国語圏の現代小説を翻訳してきました。ほとんどが中国大陸、香港、台湾等各地で数十万部から100万部を超える大ベストセラーですが、あまり馴染みのない別世界の物語で難しいと感じられるのか、日本語に翻訳すると文字数が原文の1.5倍~2倍近いボリュームのある分厚い本になってしまうせいか、書店で気軽に取ってもらうには少しハードルが高いようです。実際に手に取ってくださった読者の感想や書評などでは多くの方が絶賛してくれますが、数年後には絶版になってしまう作品もあります。
2019年の刊行後まもなく入手困難となっていたこの『房思琪の初恋の楽園』が、今この時に白水社Uブックスの形で復刊したのは、何より、多くの読者のみなさまが「もっともっと多くの人に読まれるべき」と声をあげてくださったおかげです。同時に、学校や学習塾などの教育現場、芸能界など性犯罪が繰り返される現実、世界の多くの国に比べて性犯罪者の罰則があまりに軽く、被害者がバッシングさえ受ける弱者・被害者の人権後進国・日本で、勇気をもって声をあげる被害者が増えつつあるいま、この作品が広く求められていることも感じています。数年前まで日本のメディアでほとんど目にすることもなかった「グルーミング」という言葉の認知度が近年高まっているのも、未成年者に対する性犯罪の件数が単純に増えたわけではなく、被害者による告発で表面化する事件がほんの少し増えたということに他なりません。
台湾では、『房思琪の初恋の楽園』の出版の前と後では社会が大きく変わったといわれています。この作品に影響を受けた映像作品が相次いで話題を集め、さらには条例や法律の改正にまで波及する大きなうねりを引き起こしています。そして、読者もまたつぶやいています。「『房思琪』を読む前と読んだあとではもう世界は同じ世界ではない」
刊行直後に自ら命を絶ってしまった著者の人生と重ね合わせ、センセーショナルなノンフィクションと誤解されがちですが、本書が何よりも文学作品としていかに凄味を持った美しい作品であるか、上野千鶴子先生の言葉をお借りしてここに紹介したいと思います。
――すばらしい文体!20代の若さで中国の古典を底に潜めたこんな華麗な文体が駆使できるとは台湾文学おそるべし。指導者から少女期の若い女性への性愛の押しつけがこんなに複雑な屈託と傷を残すのをこんなに繊細に描いた小説は他にないのでは。
◆書誌データ
書名 :房思琪の初恋の楽園 (白水Uブックス)
著者 :林 奕含、
訳者 :泉 京鹿
頁数 :324頁
刊行日:2024/3/2
出版社:白水社
定価 :1980円(税込)