ガザとともに考える

ガザのことが、頭から離れないわけではない。だが、仕事の集中力がふと途切れるとき、帰りの夜道をひとり歩くとき、部屋でたわいもない雑談をしつつ閉め忘れたカーテンを閉めるとき、彼の地でいまなにが起きているのか、ふと思いを巡らすことがある。
ただ、イスラエルによる容赦のない虐殺の過程を追いながら私がいつも思い出すのは、それを黙認してきた国際社会に対する寒々しい感覚だけではない。ネタニヤフら政治家や軍人たちの、のっぺりとした表情への違和感だ。彼らを見ていて感じるのは、自らの力に対して「これ見よがし」でありつつも「自己抑制」を演出する男性性(男らしさ)の表れであり、一言でいえばマチズモ(男性至上主義)の発露である。
フランスの歴史学者、イヴァン・ジャブロンカは『マチズモの人類史』で、世界最初の文字体系が生まれた紀元前4千年紀のメソポタミアの国家において、家父長制はすでに定着していたとする。そして宗教を問わず男性支配があまねく確立され、家父長制的な男性性すなわち「支配する男性性」が男性のジェンダーとして浸透していった経緯を記している。
そのうえでジャブロンカは、その構成要素をさらに分解し、上でふれた「これ見よがしな男性性」や「自己抑制的な男性性」などを挙げている。後者が前者の露骨さを抑える身振りであるとするなら、それらは確かに多くの指導者の顔つきの共通項であるように見える。
とはいえ、海外にばかり目を向けてもいられまい。夫婦別姓も法制化せず、中絶時の配偶者同意を原則化し、避妊時の保険適用を拒み、離婚後さえも妻の束縛をもとめるこの国の与党政治家らには、力もないのに権力を誇示する頑迷さと、それを取り繕う平静さの装いしか見出せない。また、彼らのそうしたセクシズムの態度は、アジアの近隣諸国への優越性をつねに仄めかすそのレイシズム的な姿勢と根を同じくしているかのようだ。
このざまでは、いちど己の弱さを突きつけられれば慌てて強靱さを極端なかたちで見せつけようとする暴力性、ジャブロンカのいう「犯罪的な男性性」への距離もわずかに見える。実際、両者を隔てるのが平時/戦時という状況の違いにすぎないとするならば、互いの男性性に本質的区別など果たして存在するのだろうか。
では、こうしたマチズモからの突破口はどこにあるのか。ジャブロンカが提唱するのは、それが女性を、また男性自身のありようをも支配してきた歴史から学び、「支配しない男性性」をめざすことである。それは男性性を権力の表現とすることを拒み、女性に敬意を払い、男女の平等を重んじることだ。
単純に過ぎると思われるかもしれない。だが、この世界を日々見つめていると、人類史の出発点に立ち返るべき時期が来ているのではないかとさえ私には思えてくる。このままではパレスチナでの出来事など、すぐにまた忘れ去られてしまうだろう。
これまでマチズモは、あまりに多くの女性の、そして子どもたちの人生を破壊してきた。私たち男性は、その男性性のありように関与しつづけている。それは現在のガザの惨状と無縁のようでいて、どこかで深く繋がっているはずだ。

◆書誌データ
書名 :マチズモの人類史――家父長制から「新しい男性性」へ
著者 :イヴァン・ジャブロンカ
訳者 :村上 良太 頁数 :448頁
刊行日:2024/4/1
出版社:明石書店
定価 :4730円(税込)

マチズモの人類史――家父長制から「新しい男性性」へ

著者:イヴァン・ジャブロンカ

明石書店( 2024/04/01 )