今年の夏は、とびきり暑い。8月8日~10日まで、酷暑の京都から逃れて娘と中2の孫娘といっしょに軽井沢へ避暑に行く。軽井沢は日差しが強くても風が吹き抜けると、なんとも気持ちいい。去年、行けなかったところをめざして、森と水辺をあちこち散策して涼しさを堪能した。ほんとに夏の軽井沢は別天地だ。

 1日目の朝、京都を発って東京経由・長野新幹線で1時間ほど。軽井沢は東京からずいぶん近いんだ。

 レンタカーを借りて最初の目的地、南軽井沢の「KARUIZAWA LAKE GARDEN」まで走る。浅間山をバックに広大な敷地に湖と8つのガーデンが、まるでおとぎの国のような美しさで静かに広がっている。入園者は私たち3人だけ。イングリッシュローズガーデン、フレンチローズガーデン、ウッドランド、睡蓮の池など絶景の中で静けさを堪能する。ローズシーズンは終わっていたが、カサブランカとユリが満開。睡蓮は朝、花が開いて10時頃まで咲いているという。

      軽井沢レイクガーデン

     軽井沢レイクガーデン


 次に中軽井沢「ムーゼの森」にある「エルツおもちゃ博物館」と「絵本の森美術館」へ。ここは去年も訪ねたが、孫娘が、お友だちにお土産を買うというので立ち寄る。

 そこから、しなの鉄道沿いの「軽井沢コモングラウンズ」へ。学校の寄宿舎だった場所を生かした地域コミュニティ施設。森の中に書店やカフェが点在している。森の本屋さんで本棚を眺めていたら、ガザ関係の書物も何冊か並んでいた。孫娘は分厚いデッサンの本をじっくり眺めている。近くの「RK DAYS」というお店で軽い夕食をとり、一旦、駅でレンタカーを返却して軽井沢プリンスホテルウェストにチェックインする。

   軽井沢高原教会 サマーキャンドル


 夜、7時半、「軽井沢高原教会」での「サマーキャンドル」にタクシーで向かう。1921年(大正十年)、内村鑑三、北原白秋、島崎藤村らが集ったという森の中の教会。樹木が繁る中を無数のランタンがあたりを照らして幻想的な風景だ。夜9時にホテルに戻ると、すっかりくたびれて温泉に浸って、ぐっすり眠る。

 2日目。朝食は駅近くの去年も訪ねた「旦念亭」の中庭で、厚焼きトーストとスープとコーヒーをいただく。再びレンタカーで北軽井沢へ。長野県境を超えて群馬県に入る。上信濃高原国立公園の「白糸の滝」までひたすら走る。滝の高さは3メートルほどだが、横に長く連なる白い糸のような滝の水が流れていて美しい。あたり一面に漂うマイナスイオンを満喫する。

         白糸の滝


 そこから「鬼押出し園」へ。1783年(天明三年)の浅間山噴火によって生まれた溶岩流のゴツゴツした巨岩がびっしりと連なっている。8月8日、宮崎で起こった南海トラフ地震のことを思うと、こんな風景も決して昔の話ではないなと思う。山頂から遠くの山々を背景にパノラマのような景色を眺めつつ、自然の力は、人の力では計り知れない大きな存在なのだと実感する。

        ルオムの森

 さらに北軽井沢の「ルオムの森」へ。標高千メートルの高原に大正期の実業家・田中銀之助の洋館を改装したという百年前の建物で、石窯ピッツアが焼き上がるのを1時間ほど待つ。八千坪の原生林の中で、ゆったりと時間を過ごす。

 「Luomu」とは、フィンランド語で「自然にしたがう生き方」を意味するという。孫娘は森の中のツリーハウスに登り、ジップラインに繰り返し乗っては楽しんでいた。

 帰りにもう一度、「軽井沢高原教会」に立ち寄り、昼間の教会の緑の広い庭を眺める。すぐそばのHotel Bleston Courtで、ブルーベリージュースを飲んで一服。駐車場の向こう側には、無教会主義を唱えた内村鑑三を顕彰するケンドリック・ケロッグ作のドームのような「石の教会 内村鑑三記念堂」があった。

 帰りに孫娘は駅前のアウトレットでセールの夏服を買い、夕食を「月季花」で小籠包ほか中華料理を味わう。この日もくたびれて、ゆっくり温泉に入り、早々と寝る。

 3日目。荷物を駅のコインロッカーに預けて軽井沢本通りの「Natural Cafeina」でフレンチトーストと、珍しいアサイーボウル(アマゾンのフルーツなど数種)をいただく。

 途中、通りかかかった「Ethnic Blues」というお店で夏らしい手染めの服を1枚、買い求める。

 そこから「旧軽銀座」をどんどん歩いて「ミカドコーヒー」でモカソフトを楽しみ、「ピーターラビット」の店で飾り物を求め、さらに三笠通りを登っていくと、1895年(明治二八年)、カナダの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーによって創設された軽井沢最古の教会「日本聖公会軽井沢ショー記念礼拝堂」があり、近くに室生犀星の詩碑も立っていた。その道を真っ直ぐ進むと「旧三笠ホテル」に着くが、改装中のため途中で引き返して戻り、「酢重正之商店」でお土産に信州味噌などを買う。

       室生犀星の詩碑

   日本聖公会軽井沢ショー記念礼拝堂


 午後の長野新幹線「あさま号」に乗り、東京駅へ。高原から下界に降りてくると、人々の混雑と暑さに、もうびっくり。乗り換えの新幹線は、数日前の地震の影響もあまりなく、無事に京都に戻ってきた。ショートステイにお願いしていた97歳の叔母も無事、帰宅。それぞれの荷物の後片づけとお土産の整理に追われて旅は終わった。旅の間は毎日、1万5千歩ずつ歩いたかな。ああ、疲れた。

 「ルオムの森」にあった「軽井沢新聞」を読むと、「野生動植物と共生する自然環境を守りたい」との思いで軽井沢の多くの住民が、無謀な開発行為を制限する「景観協定」認定に向けて立ち上がっているという。森や水辺は絶対に残さないといけない。大切な自然環境を守ることが、人々の命を守ることに、必ずや、つながっているんだから。

 そして8月8日の朝、行きの新幹線の中で「ウーマン・リブの田中美津さんが亡くなられた」というニュースを知る。ショックだった。旅行中も、田中美津さんのお顔や声や言葉が頭の中に浮かんでは消えていった。

 田中美津さんと私は同い年。ドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」(吉峯美和監督、パンドラ配給)の自主制作のクラウドファンディングのため、画廊「ヒルゲート」の人見ジュンコさんが呼びかけて「ウィングス京都」に田中美津さんをお迎えして、お話を聴いたのが、2019年5月25日のこと。

 その日、新刊の田中美津著『この星は、私の星じゃない』(岩波書店、2019年5月)にサインをいただいた。「誕生日の翌日に、あなたに会えた。ありがとう」と猫のスケッチに添えて書いてくださった。

 「私も美津さんと同い年ですよ」というと「あら、そうなの?」と微笑んで応えてくださったお顔が、今も鮮やかに蘇ってくる。

 田中美津さんの語り口は、目ヂカラのある眼差しとともに、まるで聴き手の一人ひとりに直に語りかけるように、深く、鋭く、胸に響き、「一人ひとりの私」の心の中にまで届く、すばらしい「ことば」の数々だった。

 田中美津さんが、いないと思うと、ほんとに悲しい。
 田中美津さんは、女たちにとって大きな、大きな星だったと、今、改めて思う。

 WANのエッセイに、以前、田中美津さんに触れて書いたことがある。
今こそ、リブを(旅は道草・121)2020・2・20

遅れて、リブに出会った私(旅は道草・113)2019・6・20

 なんだか旅の話と田中美津さんのことが、ごっちゃになってしまって、ごめんなさい。まだ心が落ち着かないけれど、私の世代から次の世代へ、またその次の世代へと、リブは、どこまでもつながっていく。それをWANが確実に、バトンリレーしてくれることを信じて。

 暑い夏の日、旅の終わりに、「女の時の流れ」を静かに思う。