台風10号とその影響による被害が各地でつづく報に胸が痛い。この台風はコースもペースも風変わりだが、これからこうしたケースが増える見通しとも聞く。気候の変動によるのだろうか。いまはまず、どちら様もどうぞご無事で。祈る思いで、そう願う。
 さらに願わずにいられないのは、台風はもとより大雨も、能登半島をしばらく避けてもらえませんか、ということ。数年来の謎の群発地震、その末に起きたこの正月の大地震で、かの地は甚大な被害を受けたばかりだから。

 この正月からの8ヶ月。ふと気がつけば私は6回、神奈川県から石川県へ出かけていた。近年ではまれな頻度で、行き先はまちまちとなった。1月は県南部の加賀地方へ。2月は能登半島の中ほどに位置する七尾市の中島まで。そして4月は能登半島の突端・珠洲(すず)市の高屋へ、以降は珠洲市全域そして輪島市や志賀町へも。
 この間(かん)、瓦礫の撤去や家屋の片づけ・修理・再建に時がかかっている感のある一方、道や水道などいわゆる「ライフライン」の復旧はなんとか少しずつでも進みつつある印象を7月以降は受けている。マグニチュード7.6(最大震度7)を記録した震源地の珠洲市でも、仮設住宅が順次できつつあり、入居もすすんでいる様子だ。
 7月下旬、仮設住宅へ入居する友人の引っ越しを私も手伝った。友人の家は1月1日16時10分ころに起きた地震で全壊。集落も10日ほど孤立したため、外へ通じる道をなんとか車が走れるようになった日に、ほぼ集落ごと加賀市へ移動して2次避難生活をつづけていた。
 引っ越し先の仮設住宅は集落の漁港ちかくに並ぶ。部屋の陸(おか)側の窓をあけると、目のまえの山が視界へ飛びこむ。緑色の山肌をえぐる爪痕のような茶色い土も見えている。一部が大きく崩れたままの山の地面は、大雨などに襲われればもろくなり、さらに崩れる可能性を否定できない。警戒を怠れないことは一目瞭然だった。

 眼前にせまるその山々と、できたばかりの仮設住宅や被災した民家が軒を連ねるわずかな平地、その先に広がる海岸は、かつて原発の予定地だった。それぞれ大阪と名古屋に本社のある関西電力と中部電力が、地元の電力会社である北陸電力とも共同して、珠洲市の高屋(たかや)町と寺家(じけ)地区に原発を新設しようと計画していた。だが反対する声は根強く、ついに2003年の師走、29年目の計画が「凍結」されることになったのだ。

能登半島の北部方面から望む高屋浦。全体的に2メートルほど隆起している。右手の海岸線は高屋港で、人工的な構造物には亀裂が入ったり倒壊したりしている。左手の海岸線で白い地面/磯が広がって見える部分は、自然海岸の海面下にあった岩場が海底の隆起により海水面から露出している。

 原発とは核物質をつかって湯を沸かし、電気をつくる施設である。そこでは、無毒化できない毒性のある放射性物質を多量に扱わなければならない。しかも放射性物質は時空を超えて拡散しうる。そんなにも危険性の高い施設が、海山のめぐみ豊かな珠洲につくられてしまうことにならなくてよかったと、私も当時ふかく安堵した覚えがある。
 ただ、この正月の大地震からこっち、安堵の次元は変わった。地震の震源地として示された場所が、まさに高屋と寺家に挟まれた直近に位置していたのだ。
 国策どおり計画どおり、ここに珠洲原発ができていたら? いったい私たちは、どんな事態に直面していただろうか。2011年の東日本大震災に端を発して福島で起きた、東京電力の原発事故による困難の再来も、さらなる困難もありえただろう。想像すると震えが走った。
 いま珠洲に原発がないことは偶然ではない。自分の意に反して長いものに巻かれることをよしとせず、もの言うことをあきらめない民がいたお陰だとも言える。
 能登半島で何が起きたのか。それを知ることは、この列島で生きる誰にとっても、いまとても大事だという気がしてならない。だから、そこで私が目撃してきた地球の地殻変動の一端を、ここで紹介させていただく。まず、2012年の高屋の磯をご覧いただきたい(撮影:塚本眞如)。

次に、今年2024年4月の同じ場所の様子。よく知っている場所なのに違う表情をしていて、時空間の裂け目に迷いこんだような感覚を覚えた。今年の地震までは海中にあった岩が、海底の隆起によって海面から露出している(白く見える岩が広がっている部分)。

(つづく)

*この企画は一般財団法人上野千鶴子基金の助成を受けて実施しています。
*クレジットのない写真は筆者撮影。

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山秋真「原発建設反対運動に救われた能登と西日本」