*この記事は、『週刊金曜日』2024.1.12(1455号)に掲載されたものを、執筆者と週刊金曜日編集部のご厚意により転載させていただいたものです。*
珠洲市に原発があれば被害は一層深刻に
「大津波警報が出ています!」
1月1日16時10分すぎ、緊急地震速報を知った私は震える手で電話をかけ、相手の声が聞こえた途端にそう告げた。声の主は能登半島の突端に近い石川県珠洲市高屋町にある、圓龍寺の塚本真如住職である。この地方では2020年から謎の群発地震がつづき、昨年5月は珠洲市で震度6強を観測。圓龍寺の被害も大きく、また大きな地震があれば倒壊を免れないのでは、と案じられていた。
寺は海沿いにある。この正月は帰省する人もなく夫妻で過ごすこと、妻は晩秋に骨折して退院間もないことも、たまたま前日の電話で聞いていた。03年まで原発の新設計画があった珠洲を舞台に、私は『ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』(桂書房)を上梓しており、原発計画を押しとどめた運動の中心にいた住職は主な登場人物のひとり。一報を入れることは急務だと咄嗟に判断した。
「津波もそうだけど」と住職の声が途切れながら聞こえたあと電話は切れた。地震の被害も深刻なのだ。海外在住の住職の娘、夕有さんに経過を伝えて知らせを待つ。
1日17時45分ころ、母親(住職の妻)と電話がつながったと夕有さんから連絡が入る。「命は大丈夫。でも家も寺も倒壊し、天井の下敷きになって救出された」という。「倒壊した家が多く、みんなで車に乗りあわせて道路にいる。道はあちこち崩れて寸断され、高屋は孤立。輪島へ出かけていた2名の安否がわからない」そうだ。
2日午前、高齢者や病人が多く「病院の処方薬を毎日飲まなければならないのに瓦礫の下で取りにいかれず困っている。怪我人もおり、湿布や鎮痛薬もほしい。水と毛布も要る」という。2日午後、「珠洲の外浦(日本海側)地域の住民は忘れられているのか」と住職が心配しているとのこと。「ラジオも持ちだせず情報がない。携帯電話はauのみつながり、ガソリン満タン車で充電している。暖を得るのもガソリン頼みで、間もなく尽きる」という。その晩、高屋港に瓦を並べた「SOS」メッセージの写真が報じられた。
3日夕、「今日は電話がつながらないが、自衛隊が14時には隣町まで来た。今日中には高屋まで入る。食料も今日、船で高屋港へ入る見通し。緊急性の高い薬は、町内の誰かの孫が帰省中で車と徒歩で病院へ取りにいってくれた」と夕有さんはやや安堵しつつ、「雨が降ってきて寒い、横になりたい、と高齢の女性が話していた」と案じた。
3日晩、夕有さんの姉、陽さんから連絡が入る。「怪我人と急病人の高齢の女性が今日、ドクターヘリで金沢へ搬送され無事入院した。高屋のみんなは芋を掘って焼き芋にして、船の無線で漁師仲間に助けを求めて必需品を補給し、分けあってしのいでいる。自衛隊が入って水も届いた様子。ただ、知らせるにも運ぶにも術がなくて、隣町とは分けあえない。外浦で道が寸断されると集落ごとに孤立して、支援はなかなか行き渡らない」とのことだった。
4日は誰の携帯も通じず、予断を許さない状況が続く。原発をつくる時は全戸移転とされながらも計画凍結まで漕ぎつけた高屋で、厳冬期の激震直後に孤立する危機を人々は辛くも耐えている。この地は一連の地震の震源に近い。原発ができていたら、福島で11年に起きた原発事故と同じことが今回も起きた可能性がある。
1993年の能登沖地震のあと、「原発は配管のオバケ。配管が折れたら放射能地獄」と珠洲市民は市長選挙などに挑み、建設を食い止めた。地震の直後は避難も救援も不可能で、そこに放射性物質まで加わる原発立地は棄民政策だと見抜いたのだろう。その叡智に能登と西日本は救われた。