6月末には珠洲(すず)市の寺家(じけ)地区も訪れた。計画どおりなら原発の炉心ができていたはずの場所は、どのような状況かと気になっていた。  かつては潮の引く時間帯に岩がすこし顔をだすくらいだった海岸に、いまではたくさんの岩が見える。海底はやはり隆起していた。

 1993年2月7日に能登半島沖地震が起きたあと、原発問題が最大の争点とされ、のちに最高裁で無効となった、激突の市長選挙を2ヶ月後にひかえていた珠洲市では、地震と原発への関心が高まった。すると北陸・中部・関西の3電力会社でつくっていた珠洲電源開発協議会などが一大キャンペーンをはじめた。
 手元の資料をみると珠洲電源開発協議会は、「日本の原子力発電所は大きな地震がきても大丈夫です」と大書したチラシを3月6日には発行している。13日には「原子力発電所を支える岩盤は大きな地震が起きても大丈夫です」、14日には「原子力発電所は大きな地震まで考えて設計しています」、15日には「原子力発電所は万全の地震対策がとられています」、16日には「原子力発電所は大きな地震がくれば自動的に止まります」と訴えるチラシがつづいた。
 そして21日、珠洲市と(社)社会経済国民会議が主催者となり「まちづくり講演会」がひらかれた。通商産業省(現経済産業省)資源エネルギー庁と石川県が後援した、入場無料の会だ。市内各地と会場をむすぶ送迎バスまで運行する周到なお膳立てで、その時刻表を裏面に印刷したチラシもつかって大々的に広報されていた。
 講師としてそこに写真と名前が掲載されたのは、渡部(わたべ)丹(まこと)さんと山東(さんとう)昭子(あきこ)さん。それぞれ、肩書きは「元東京都立大学工学部教授、日本建築学会地震災害委員会委員長」と「科学技術庁特別顧問」、演題は「地震と原子力発電所」と「私たちの暮らしとエネルギー」だった。
 一連のキャンペーンでは、たとえば原発の重要施設の地震対策として、1)直接強固な岩盤に設置する、2)建築基準法の3倍程度の地震に耐えると共にその地域で想定される最大級の地震に対しても十分な耐震性を有している、3)大きな地震がきた場合は地震感知装置により自動的に停止する、と訴えていた。
 だが仮に地盤は強固だとしても、その地面、岩盤そのものが、動くとしたら? その可能性が度外視されてきたのなら、人知には限界があることの証左ではないだろうか。

 その日は輪島市にも立ち寄った。訪れたいところは多々ありつつも行き先は黒島漁港にしぼられた。メディア関係の有志で地震による被災状況を見学する日帰りバスツアーの一環だったため、時間などの制約も理由だろう。だが、それに留まらないと思わせられる、信じがたいほどの光景に遭遇することとなった。
 海がないのだ。港全体がすっかり隆起している。そのむかし日本海航路による海運業の発展によって盛え、徳川幕府の直轄地となった地区の漁港だというのに。
 言葉をうしないながらも海水をめざして歩きだす。あしもとの地面は正月までは海底だったのかとおもうと妙な気がした。
 それにしても海が遠い。まるで広大なグラウンドを歩いているような気分になる。延々とつづく砂を踏みしめ、白くつらなる岩々を越えて、かつての波止(はと)の脇をすすんだ。

 これはいったい何なのか。人工の構造物ではある。ただ、大部分を海中に沈めただろうもののはずなのに、いまやスックと屹立している。

 その壁面は、底部から3分の2程度が藻の化石のような白いものに覆われていた。あちらこちらに貝の殻も付着する。蓋が残ったままのサザエ貝の殻もあった。突如として海から露出してしまい、海水へもどれずに息絶えたのだろう。
 それが遠目にはもともと地上につくられた建造物かのようにも見えながら、そうではないことを、視るものすべてが物語っている。

 いつしか、別の惑星に降りたったかのような感覚におそわれた。いや、むしろ地球という惑星の真髄を垣間みて、衝撃を受けたのかもしれない。惑星地球において地殻の変動は、大自然の摂理に沿った現象なのだろう。
 地球上でそれが特に頻発する列島に、私たちは原発を林立させてしまった。その現実を直視して動きなさいな。地殻の変動や地震という大地の響きを通じて、宇宙がそう伝えてくれている心地がした。

 7月1日、東京都内の衆議院第2議員会館で、能登半島地震の現状報告会がひらかれた(実行委員会主催)。
 「北前船の風待ち港だった高屋の浦も2メートル隆起した。船底がつかえて船を動かせないが、港の海をあと1メートル掘ってもらえれば漁師も沖で仕事ができる」などと訴える現地の声や、現地で活動する支援者からの状況報告そして専門家からの提言に、63名の人が耳を傾けた。参加者との質疑応答では、国会議員に働きかけて超党派の議員連盟をつくるなど、解決への道筋づくりについて意見も交わされている。
 翌2日にも急遽、「能登地震と原発」と題する会が同じ場所でひらかれた。もうひとつの原発予定地だった珠洲市高屋町の唯一の寺の住職で、原発を押しとどめた草の根運動の中心人物のひとり、塚本眞如さんの言葉を聴こうと65名の人が駆けつけた。
 地震について、そして原発について思うことを問われると、「(能登半島地震では)放射能(による被災)がなくて本当によかった」、「福島(で)は地震(による被災)に放射能(による被災)が加わっている。ほんとうに大変な思いをされてらっしゃるということが肌身を通してわかる気がする。どんな辛い思いをしているか。地震が起こって初めて福島の人たちの気持ちがわかる…情けないです」と塚本さんは静かに語っていた。
 また、西日本を救ってくれてありがとうという電話がたくさん届いたことを訊かれ、「(原発は)私の力で止められるような簡単なものじゃない」として「珠洲市民と、それから皆さんの共同でもって、止めたんです。そのことを痛いほど感じています」と、時に絶句しながら塚本さんが応える場面もあった。
 その会は「能登はやさしや土までも」という言葉にまつわる話で幕を閉じた。その言葉を聞いた塚本さんの恩師がかつて、「要するに『人殺し』ですね」と応え、こう説いたという。
「能登は議論をしないということでしょう。人が何をやっても黙って見ているということでしょう。議論をしないと相手の人格も育ちませんし、自分の人格も育ちません。刃物を持って突き刺すだけが『人殺し』じゃないですよ。お互いに育ててこそ人が『生きる』ということで、黙っていることは自分の人格も相手の人格も殺すことなんです」
 そう聞いて「参りました!」と唸った経験を思い出したと、塚本さんは「どんどん話してほしい」と話を結んだ。

 原発立地という棄民同然の国策にあらがった能登の人びと。このたびの震災による被害の深刻さをみれば、原発を押しとどめることで、みずからのそして他者の地域の保全に多大なる貢献をした人びとだと言える。
 そうした人びとを、いつまで過酷な被災状況に見棄ておくつもりだろうか、この国の政治は。それを私たちは、見ない振りをして黙認していいのだろうか。そして、地震列島で各地の民が健康で幸福に暮らすために、なすべきことは何か?
 話したいこと、話すべきことは、まさに無数にあるだろう。それが正当に耳を傾けられることが必要なのだ。もの言う民こそが我が身と未来を救うことを、能登半島の経験は示している。

*7月2日の会の様子はOur Planet TVによりアーカイブ配信されています(無料)。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/live/_joX7mhfwCY

*この企画は一般財団法人上野千鶴子基金の助成を受けて実施しています。
*クレジットのない写真は筆者撮影。

以下の記事もぜひご一読ください。
山秋真「原発建設反対運動に救われた能登と西日本」
山秋真「能登の突端に思う・2024年夏(前編)」