
「ああ、これは、かつての私だ」と思った。ベティ・フリーダン著・荻野美穗訳『The Feminine Mystique 女らしさの神話』上・下(岩波文庫、2024年9月13日)が出版され、早速読む。ページをめくり、行を追うごとに、なんだか気恥ずかしさと悔しさとともに60年前の、あの頃の若い私が蘇ってきた。
1963年、『The Feminine Mystique』を出版したベティ・フリーダンは、その後、第二波フェミニズムを牽引するリーダーとなる。そして『新しい女性の創造』(三浦冨美子訳、大和書房、1965年)として翻訳され、新装版、増補版、改訂版が出たものの、原書があまりに大部だったため、邦訳書はかなり省略されたまま、原文のすべてを読めない抄訳版の状態が続いていた。2013年、初版から50年、フリーダンが後に書いた「序論」「エピローグ」「メタモルフォーゼ」を加えた最新版をもとに、今回、荻野さんが全訳本を出版された。原注も丁寧に原文にあたって訳され、「訳者解説」は、とてもわかりやすく、見事な上・下全2冊にまとめてくださった荻野さんに心からの感謝を捧げたい。
本書については、WAN「女の本屋」の「著者・編集者からの紹介」にアップされている。
読後の感想は、この本を読まれる読者のみなさまにお譲りするとして、私の全く個人的な思い出を、この本にふれて書いてみたい。
「アメリカの主婦たちに広がっている原因不明の不安やいらだち、「名前のない問題」は、結婚して夫や子どもの面倒をみることが幸せだとする「女らしさの神話」のせいではないか」と「上」の部で描き、「下」では「女性たちを苦しめている「女らしさの神話」から抜け出す道、それは妻や母としてだけではなく、一人の人間として生き、自己実現をはかることだ」と読者に呼びかける。
ベティ・フリーダンが出身大学であるスミス・カレッジの同窓生たちに尋ねたアンケートに加えて、長年の雑誌記者としての「名前のない問題」を抱える女性たちへのインタビュー結果を合わせたものが、この本のもとになっている。「自分が存在しないような気がする」「私は、夫や子どもたちや家族より、もっと他のものが欲しい」という女性たちの悩みの相談を受けて、精神分析医たちは、それを「主婦症候群」と名づけたという。「職業・主婦」という古い固定観念のもとに。
ああ思い出した。私が初めての本『女(わたし)からの旅立ち 新しい他者との共生へ』(批評社、1986年)を書いた時、編集者から「肩書を「主婦」としましょうか?」といわれて、「いいえ、「無職」としてください」と答えて怪訝な顔をされたことがある。「主婦」の方が売れると思われたのかな? そして夫から「この本を書かなければ離婚するぞ」といわれて仕方なく書いたという恥ずかしい思い出も。2冊目の『関係を生きる女(わたし) 解放への他者論』(批評社、1988年)では、「職業・パート労働者」とした。その頃、京都YWCAでベッドメイキングのパート労働の仕事をしていたから。
1950~60年代のアメリカ。白人で学歴のある女たちは早く結婚し、子どもを産み、郊外に住み、夫や子どもたちのために「女性役割」を果たすことが理想とされていた。小学5年生の頃、私は仲のいい男の子から「うちへ遊びにおいで」と誘われた。庭の芝生でゴルフの練習をする父親と、電化製品が並ぶ台所に立ち、ジューサーでミックスジュースをつくってくれた母親。あのおいしい味と香りは今も忘れられない。まだ戦後の混乱が残っていた頃、「ああ、これがアメリカ風の家庭なんだ」と思った。その母親も敗戦後、「満洲」から引揚げてくる時、顔を墨で黒く塗り、身を守って帰国したという話を、その子から聞いたことがある。
高校までは男女差も、あまり感じなかった。元女学校だった高校の男子生徒は優しく、女子の方が賢かったと思うけど、なぜか、どの学年も男子が女子より数が多いのだ。後に入試の合格点を男女で差をつけ、男子が多くなるように選別していたことを知る。今でも、あの時代と変わらない大学があるじゃないか。
大学で社会学を専攻した私は、当時、最先端だったアメリカの「機能主義」教育を受けた。ベティ・フリーダンは「アメリカの社会科学は、女性の人生を制限していた古い偏見を打破するのではなく、それに新たに権威を与えた。女性を解放するための有力な武器になるはずだった心理学や人類学や社会学の洞察は、女性を古い偏見のど真中に囲い込むことになったのだ」と「機能主義」の果たした役割を批判する。
ジークムント・フロイト、タルコット・パーソンズ、ハロルド・ガーフィンケルに始まるエスノメソドロジー、ニューギニアのトロブリアンド諸島へ現地調査に行ったブロニスワフ・マリノフスキー、そしてマーガレット・ミードなど、「機能主義」の文化人類学について指導教授は滔々と話をしてくれた。
フリーダンは、マーガレット・ミードを「ジェンダー」の視点から批判する。「機能主義は女性にとって「今あるもの」、もしくは「過去そうだったもの」を「そうあらねばならないもの」に変えてしまった」と述べ、南太平洋のサモアでの現地調査から、ミードが「女であることは良いことだ。男の真似をする必要はない。女としての自分を尊敬できると言うことができる」としながらも、「声を大にして「女らしさ」を主張したい。さらに進めて解放された現代の女性たちに対して、自由な知性をもって子どもを持つことを選択すること。意識的な人間の決意として母性に「イエス」ということは情熱的な次なる旅の一歩となる」と言うミードに、フリーダンは異議を唱える。
大学の指導教授は「国費を使って女子に学問を施すのは無駄だ」と思っていたのか、「就職なんか辞めろ。早く嫁に行け」といわれた時は、さすがに私もびっくりしたが、1960年代末まで民間企業は「大卒女子は不可」として試験さえ受けられなかったのだ。唯一、女子が受けられたのは公務員と教職、新聞社だけ。先輩女性がいた読売新聞大阪本社を受けて最終面接に残った40名中、女性は私を含めて10名だった。入口の受付名簿の「紹介者欄」には中曽根康弘など政治家の名前がズラリと並んでいて、紹介者なしの私は、もちろんダメ。卒業後は1年ほど教科書出版会社で働く。非正規だったけど、給与もボーナスも有給休暇も正規社員と同じ。会議でも自由に発言をして男女差別は全くなかった。どうやら社長以下、経営陣は元学生運動のリーダーだったらしい。
その頃、学生時代からつきあっていた男にラブレターを200通書き、親の反対を押し切って結婚。彼は新聞記者として初任地の千葉支局へ行く。1960年代末、成田闘争の真っ只中、取材に行ったきり全く家に帰ってこない夫と、生まれたばかりの子どものワンオペ育児をする私と。結婚後しばらくは、病院の受付や銀行の窓口で「夫の姓」を呼ばれるたびに「はて、誰のこと?」と首を傾げたけど、あれから半世紀以上経った今もなお、「選択的夫婦別姓」は実現していない。
では「女性役割」ではなく、女が、一人の人間として生き、自己実現を図るには?
フリーダンはインタビューで、彼女たちが「私は何がしたいのだろう?」と自問し、彼女たちの「自分で答えを探し始める」語りを聞いていく。「自己実現」のためには「女らしさの神話」の幻想を解くこと。「女性を動かす内なる声を、これ以上かき消すことのできない時が、すでに到来しているのである」と、1963年の時点で書いている。そして「この本で私の人生が変わりました」という女性たちに読まれて、この本は、またたく間にベストセラーとなった。
荻野さんの「訳者解説」によれば、その後、フリーダンは1966年、女性たちとともに全米女性機構(NOW)を創設、初代会長に就く。1969年、人工妊娠中絶を合法化し、生殖における女性の選択権を認めさせるための運動組織(NARAL)の立ち上げに協力。1970年の女性の政治参画を進める全米女性政治会議(NWPC)の創設にも中心的役割を果たしたという。
そして第二波フェミニズムは、フリーダンらの男女平等、女性の社会進出をめざす「リベラル・フェミニズム」に加えて、「ラディカル・フェミニズム」の流れが生まれてくる。それぞれの主張の違いをめぐって「リベラル・フェミニズム」と「ラディカル・フェミニズム」との間には対立も生まれた。フリーダンは夫カールからのDVの問題もあり、1969年、離婚に至るが、フェミニズムの重要なテーマの一つであるDVや性暴力の問題については、ほとんど発言や運動をしなかったという。
また本書が「白人中流階級の女性たちのみに注目し、有色人種や労働者階級の女性たちが視野に入っていない」との批判もある。フリーダンは記者時代、労働組合や人種差別反対運動を闘う女性たちと出会っていたにもかかわらず、過去の経験は本書に投影されていない。これら本書への「評価と批判」の背景や理由については「訳者解説」に詳しく書かれているので、ぜひご一読を。
なお資料『日本ウーマン・リブ史』第Ⅲ巻に松井やよりさんが「1975年 メキシコ会議に参加して」を書いている。「国際婦人年世界行動計画」修正案のまとめ役を担ったベティ・フリーダンの活躍ぶりが、この記事にしっかり書かれているので、ご参考に(『おんなの叛逆』No.13 1975・10・25)。
さてその頃、私は何を考えていたのか。1970年代前半、共同子育ての自主グループが団地で活動を始めたり、西友などスーパーがパートで働く女性たちを採用し始めた頃だった。そんな中、私は1977年、ガンを患った夫の母の看護のため、私の意思で夫を説き伏せ、千葉から京都へ移り住むことを選ぶ。それはある意味、「「女らしさの神話」から逃れるための私なりの言い訳だったかもしれない」と今は思う。5年後に義母を看取り、その後、障害者解放運動「青い芝」につながる京都の医学生のグループ「ゴリラ」とともに、障害者解放の自立生活支援運動にもかかわっていく。彼らは、大森一樹監督の映画『ヒポクラテスたち』(1980年)に登場する医学生のモデルにもなっていた。
そして1989年、夫と話し合い、二人が、ともに自立するために出した答として離婚を選択。「Sentimental Journey」と称して五木寛之著『内灘夫人』の主人公・霧子に憧れて北陸の内灘へ離婚旅行に行く。
京都に戻って「さあ、明日から働かなくっちゃ」と職安へ行ったら、なんと46歳の専業主婦に仕事なんて、ないのだ。ようやく見つけたお蕎麦屋さんで働いていたら、その頃、「女のフェスティバル」でお知り合いだった「ウィメンズブックストア松香堂」店長の中西豊子さんに誘われて、中西さんが立ち上げたばかりの女性問題の企画会社「フェミネット企画」に入社。なんとうれしいことに、そこで、資料『日本ウーマン・リブ史』ⅠⅡⅢ(全三巻)(編者/溝口明代・佐伯洋子・三木草子。発行者/中西豊子・有限会社松香堂書店。制作/フェミネット企画。発行年/1992年・1994年・1995年)の編集に携わらせていただいたのだ。なんという幸運だったことか。
中西さんから「あんたはフェミニストの風上にもおけない女ね」と、いつも叱られながらも、その後の私の後半生は、女たちの「シスターフッド」に支えられて今日まで生きてこられたのだと振り返るたびに、彼女たちに心からの感謝を忘れてはいけないと思うばかり。
Sentimental Journey 離婚旅行(旅は道草・25)2012・2・20
もう一つおまけに中西豊子さんから伺ったベティ・フリーダンのお話。1980年、フリーダンは国際女性学会(現・国際ジェンダー学会)に呼ばれて来日、講演を行っている。京都のホテルの予約を頼まれた中西さんが近くの平安会館に宿をとったら、フリーダンのパートナーが大男で、「ベッドから足が、はみ出るじゃないか」とカンカンに怒って文句を言ってきたという。中西さんは「そんなこと言うても、大男やし、しゃあないやんか」と笑っておられたが、あの著名なベティ・フリーダンも、なかなかに気難しく、ややこしい人だったみたいだ。これも、むかしむかしの、こぼれ話の一つ。
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