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天皇制問題を考える2.11集会レポート 秦野康子

2013.07.24 Wed

第39回 天皇制問題を考える2.11集会         2013/02/11

―沖縄戦「玉砕場」からの証言が描く天皇の責任―

 講師 朴 壽南(パク・スナム)

講演前にドキュメンタリー映画『ぬちがふぅ(命果報)―玉砕場からの証言―』のダイジェスト版が上映された。

ぬちがふぅとは、沖縄の言葉で、命あらばこそ、つまり、命あってこそ、の意。

 座間味島、阿嘉島、慶留間(げるま)島、そして渡嘉敷(とかしき)島。沖縄本島からも離れたところに位置する慶良間(けらま)諸島で、太平洋戦争末期の1945年3月に何が起こったのか。製作者の朴壽南氏は、真実を求めて島の人々をたずね、数々の貴重な証言を得た。この沖縄戦の真実と記憶を掘り起こす映画は2012年4月に第1部が完成した。

 本集会では、在日2世の朴壽南氏を講師に迎え、映画『ぬちがふぅ』についてご講演頂いた。

안녕하세요(アンニョン ハセヨ)(こんにちは)開口一番、韓国語で挨拶された。その後語り始めた日本語の流暢さに驚く。穏やかで優しい語り口から紡ぎ出されたのは、在日として苦難の体験を積む中で抱いた思い、そして、虐げられし弱き者の恨(ハン)、無念の思い、を汲み取るべく歩んだ半世紀にわたる朴壽南氏の旅の重み。日本語が流暢であればあるほど、日本が近代において隣国に対してしてきたことの重大さを突きつけられるようだった。日本が朝鮮半島を植民地化した時代を「韓国併合」(1910-45)というが、実際は、朝鮮の人々に母語の使用を禁止して日本語を強制し、名前をかえることを強要した時代のことである。

朴壽南氏の流暢な日本語を聞いて思い出すのは、戦後一貫して日本の戦争責任を問い続けた詩人茨木のり子の逸話である。茨木は、1970年代に来日した韓国の詩人、洪允淑(ホン・ユンスク)と会い、日本語の流暢さをほめると、学生時代はずっと日本語で教育されたと返された。日本が朝鮮を植民地にした36年間、言葉を抹殺し、日本語教育を強いたことは、頭ではわかっていたが、その痛みまで含めて理解できていなかったと反省し、今度は韓国語を自分が学ぶ番だと痛感したと書いた〔茨木、1986〕。詩人の「一人でできる罪滅ぼし」としてのハングルとの格闘の始まりだ。その途上、日本で獄死した韓国の詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の詩に出会い、「隣国語の森」(『寸志』所収、1982)で自らの韓国語学習が遅くなったことを詫びた。茨木は、「りゅうりぇんれんの物語」(『鎮魂歌』所収、1965)や「四海波静」(「ユリイカ」1975年11月号)で強制連行や政府・天皇の戦争責任について言及した。

映画(第1部)について製作者の朴壽南氏は、殆ど真実が語られてこなかった、というより、隠蔽されてきた沖縄戦のことを生き残った方々(当時は少年・少女だった)の貴重な証言を基に描いたと語られた。90歳に近い証言者のためにも、ご自身の命とも戦いながら、第2部を今年中に完成させたいという。第2部では、15年戦争(1931年の満州事変から37年からの日中戦争、41年からの太平洋戦争が、ポツダム宣言受託により終結するまでをさす)時に、朝鮮半島から各地に連行された20数万ともいわれる「従軍慰安婦」の踏みにじられた性と生を記録として残したいと言われた。同胞の犠牲に関心を抱き、心を痛められているのが伝わってきた。

朴壽南氏は、15年戦争(1931-45)という表現を使われた。日本では前の戦争を米国と戦った太平洋戦争として捉えることが多いが、1931年から中国大陸やアジア各地で膨大な数の犠牲者を出すことになった戦争をしたのが、日本の帝国主義なのだ。

沖縄は、1972年の日米の沖縄返還協定により、祖国復帰が果たされたというが、実際は、日本の植民地に復帰したのだと朴壽南氏は主張され、米軍新型輸送機「オスプレイ」が、沖縄に強行配備されるなど、日本における米軍基地が沖縄に集中している現実を重く受け止めるべきだと述べられた。

ご自身の生い立ちについて、4歳から思春期までを横浜で過ごし、他の同胞の方より幾分か恵まれた暮らしだったと思うと語られた。ミッション系のフェリス女学院に入学することを夢みていたが、ある日、父親から「朝鮮人暴動」の流言が広がり多くの朝鮮人が殺害された関東大震災での経験を伝えられた。工場で一緒に働く仲間たちが、命がけで救ってくれた。朝鮮の青年が、誠実に働き、故郷に送金していることを知っていた同僚のお陰で、今の自分があると。そして、父親から「立派な朝鮮人になること、어머니(オモニ)になること」と諭され、朝鮮人学校に連れていかれたという。

さらに、朴壽南氏は、幼年期の強烈な思い出として、チマチョゴリを着た母親と一緒に歩いていた際、日本人にいきなり石を投げられ、「朝鮮に帰れ」と罵倒されたこと挙げ、語気を強められた。それを分岐点として、母への愛を奪われ、朝鮮人であることを恥ずかしいと思うようになった。朝鮮人の仲間の存在を疎ましいものに感じ、汚いとまで思った。自己否定をし、自然からも切り離されていく。自然の色彩や土の感触が、失われていった。アンデルセンの人魚の話に共感し、もし、魔女が私を日本人にしてくれのなら、声だけでなく、何もかも差し出すとまで思い詰めたといわれたのが印象に残った。

 また、ペルー帰りの阿波根昌鴻(あわこんしょうこう)氏の伊江島での戦いにも言及された。阿波根氏は、敗戦時、日本軍に比べて神のように思えた米国軍が、戦後、軍用基地にと伊江島の土地を強制的に奪っていったことに反対し、運動の先頭にたった(阿波根氏は沖縄のガンジーと呼ばれた)。

 沖縄戦について (筆者の補足含む)

沖縄は本土決戦の捨て石となった。1944年3月、沖縄守備軍(第32軍)が創設された。その兵力は約10万人といわれるが、実態は、退役軍人や少年兵、朝鮮人軍属、台湾人、アイヌ人ら、いまだにその数が明らかにされていない人達も大勢含まれていた。

1945年、第32軍は、男子生徒(14歳から16歳)による「鉄血勤皇隊」を編成し、女子生徒は「従軍看護隊」に配属された。

 慶良間諸島には、1944年9月から陸軍海上挺進隊が駐留し特攻艇の秘密基地が作られた。これはマルレと呼ばれた小型突撃艇に爆雷を搭載して敵に体当たりする作戦で、各島に配置された。また、朝鮮人軍属が阿嘉島・慶留間島、渡嘉敷島、座間味島に連行された。

伊波正栄(いはせいえい)氏は、「どうしてもあなたに話さなくてはならない」といって、朝鮮軍属が360余名、米軍との首里攻防戦で煙のように一瞬にして消えていった事実を朴壽南氏に訴えたという。朝鮮人の軍属の方々が米軍戦車への体当たりを強要させられ、日本の軍人のために使われたのだった。

沖縄戦の本質は、人口の約4分の1にあたる住民が犠牲となったこと。「玉砕」という名の軍による虐殺である。「集団自決」といわれるが、実際は「強制集団死」に近い。

2005年の「大江・岩波集団自決訴訟」で沖縄戦の元司令官・遺族が訴えた。2007年、文部科学省は高校の日本史教科書から「集団自決の軍命」を削除させた。2011年、沖縄戦の司令官が「集団自決」を発したとする十分な理由があるとする大江健三郎氏、岩波書店側が勝訴した。大江氏の『沖縄ノート』〔大江、1970〕を巡る軍命令の有無を問う裁判で、裁判所は、軍の関与を証明する命令書があるかどうかを問わず、オーラルヒストリーを証言として採用した〔上野、2012b〕。

従軍慰安婦について

朴壽南氏は、15年戦争時に朝鮮半島から各地に連行された「従軍慰安婦」たちの真実に光をあてたいと切に願う。映画の中では、知念ツルさんが、ガマ(洞窟)の中にあった「慰安所」にいた少女らのことを語っている。「アリラン」の歌をいつも寂しそうに唄っていたと。

 満州の関東軍が、連行した朝鮮半島からの少女たち。ソ連・満州国境の松花江流域の日本軍陣地に「慰安所」があり、いたいけな娘たちがいたという。

 1993年の「河野官房長官談話」の見直しが現政権により公言されている。村山政権時代に、「天皇の謝罪」を求めて、銀座をデモ行進したハルモニ(韓国語で「おばあちゃん」の意味)達。20万ともいわれる朝鮮の少女らが、産む性を奪われた。「産む前の子どもたちが大勢殺された」と、断言したハルモニ。元「従軍慰安婦」たちの権力に毅然と対する姿勢を見習いたい。

 語られてきた歴史の中に、はたしてどれだけの真実があるのか?語られてこなかった民衆の歴史を地上の光に照らすことで、真実を獲得しなければならない。

 

質疑応答

「沖縄戦に関して、事実が隠蔽されてきたということだが、一体誰が何のためにやっているのか?」という参加者の方からの質問に答えられた。

1971年、作家の曽野綾子氏が、渡嘉敷島住民の「集団自決」は「軍の強制」ではなかったと結論づけた。

宮崎晴美著『母の遺したもの』(2000年)、高文研 晴美氏の母初枝さんの座間味島「集団自決」に関する「軍命」の根拠となる手記を覆した内容になっている。

この本を証拠として、元司令官の梅澤氏が提訴したのが、戦後60年目の夏の「大江・岩波集団自決訴訟」。

映画では、住民の証言を通して、この訴訟の「茶番」を浮かび上がらせている。

一体誰が何のために、戦後半世紀以上も経って、根拠のない嘘の証言で、軍からの命令はなかったというストーリーを作り上げていったのだろうか?

所感

日本の近代は何だったのかについて猛省を促す講演会だったと思う。沖縄や「従軍慰安婦」問題を考えてみたい。

上野千鶴子氏によれば、小熊英二氏は『単一民族神話の起源』の中で、戦前には「混合民族論」が、戦後には「単一民族論」が、それぞれ「民族の伝統」の名の下に正当化されていることを「発見」したという。つまり、大日本帝国時代、日本は「多民族国家」を標榜した。日本が「単一民族国家」といわれるようになったのは、戦後のことなのである。小熊氏はまた、著書『〈日本人〉の境界』で、日本が行った植民地主義政策に関して、韓国や台湾、沖縄、アイヌなどの他民族を「日本人」化する同化政策が取られたが、日本国籍をもつ朝鮮人や台湾人が、平等に遇されていたわけではないと、述べた。制度的にも一般的にも差別される、「日本人」であって「日本人」ではない存在。それがこれら「日本人」の境界にあたる人々であったと。

朴壽南氏が講演の中で指摘された沖縄の朝鮮人「慰安婦」については、本土の軍人による沖縄差別の問題が考えられる。軍による「慰安所」設置により、沖縄女性の「貞操」が守られたとするなら、沖縄が「準占領地」扱いされていたということになるからだ〔上野、2012a〕。

染色家・芹沢銈介氏の作品に『沖縄風物』(1948)がある。1940、41年の沖縄滞在で沖縄の染物・紅型(びんがた)に出会ったことが契機となり、型染めを中心とした染色家としての道を歩まれた。「琉球処分」以来、琉球の人々が脈々と築きあげた生活の中の美を壊し続けた罪は重い。

「従軍慰安婦」問題は、その存在は知られていたが、日本では、1991年12月、金学順(キム・ハクスン)さんをはじめとする3名の元「従軍慰安婦」の韓国人女性らが、日本政府に対して謝罪と個人補償を求める訴訟を東京地裁に提訴したことに始まった。ただし、「慰安婦」という用語は注意を要する。日帝期の朝鮮で使われた「挺身隊」は、軍需工場で働かされる「女子勤労挺身隊」を意味したが、なかには、日本軍によって「軍慰安婦」として連行された女性も存在した。国連等では、sexual slaves (性的奴隷)という表現も使われている。監禁下の奴隷的な状況で兵士から強姦を受け続けた女性のことを日本では「慰安婦」と呼ぶ〔高橋、2009〕。

発足当時からその存続が危ぶまれた村山基金とも呼ばれる「女性のためのアジア平和国民基金」(1995-2007)は、前の安倍晋三政権下、解散。安倍氏も橋本徹氏も、文書資料主義の立場をとり、「慰安婦」に強制力はなかったと繰り返している。

朴壽南氏が、講演の中で強調された「従軍慰安婦」の無垢さは、そのような「モデル被害者」像を作り上げることで、その枠組からはずれた人たちに沈黙を強いることになるのではないか〔上野、2012a〕?

この記録映画は在日として生まれ、苦難の体験を積まれた朴壽南氏だからこそ成し得たことなのだろうか?沖縄戦で肉親同士殺し合わなければならなかった「集団自決」の記憶は心の奥深く封印されていたもの。それを証言として引き出したのは、朴壽南氏の共感と強い決意があればこそだと考える。ここで、日本人研究者を挙げたい。上野千鶴子氏は、1990年代に「従軍慰安婦」に関する問題に積極的に取り組み、日本の戦争責任にも言及した。また、若手教育学者の高橋舞氏は、「ナヌムの家」(韓国における元「従軍慰安婦」のための老後の共同生活施設)を2001年に訪れ、共生教育の可能性を模索し、本を書きあげた。女性史研究者のもろさわようこ氏は、沖縄の女性史を現地に長期滞在して模索、沖縄の母系社会に日本の原型を見出し、神事にも女性が活躍する沖縄の伝統の姿に未来を感じ取った。

朴壽南氏の語り口が穏やかでやさしい響きであるだけに、私たちにできることは何なのだろうかと深く考えさせられた。沖縄戦やアジアの戦争「被害者」のことを心に刻み、「加害者」である日本に生まれた我々の責任をあらたにしたい。

                 平和・国際小委員会    秦野康子

 参考文献

 『ぬちがふぅ(命果報)―玉砕場からの証言―』パンフレット(2012)

 上野千鶴子著(2012a)『ナショナリズムとジェンダー 新版』岩波書店

       (2012b)『生き延びるための思想 新版』岩波書店

 小熊英二著(1998)『〈日本人〉の境界』新曜社

高橋舞著(2009)『人間成長を阻害しないことに焦点化する教育学―いま必要な共生教育とは』ココ出版

 もろさわようこ著(1994)『オルタナティブのおんな論』ドメス出版

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