エッセイ

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京暮らしつれづれ・3 京の春よもやま話  中西豊子

2010.03.25 Thu

<東山花灯路>
 期間が十日間と短いのが残念ですが、早春の夕暮れ、東山花灯路は私の気に入りの散策路です。今年は各流派のいけ花を見ながら行灯でほんのり照らされた道のそぞろ歩きをしてきました。いけ花はちょっと立派すぎて、少し違和感がある作品もありましたが。外国からの観光客も含めて、団体客も多いようでした。狭い小路のこととて、高台寺周辺はすごく込み合いました。ねねの終焉の地だと言う圓徳寺へ初めて行ってみました。ライトアップされた庭が幻想的でした。
(写真は、いけ花と行灯の道、八坂の塔のライトアップです。)<嵐山と十三参り>
 春になると、何と言っても嵐山に人気が集まります。“虚空蔵さん”の呼び名で古くから親しまれてきた法輪寺は、四月十三日を中心に前後一カ月、十三参りのお寺として賑わいます。本尊が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で、今昔物語・枕草子・平家物語などにも記述があるという古刹です。昨日、近くへ行くついでが有ったので、久々に寄ってみました。智恵・技芸上達の仏様として知られ、『針供養』『漆祖神』のお寺としても全国に信者さんが多いので、遠くからの参拝客も見かけました。そのたたずまいは思ったより質素でした。小高い山の中腹にあるので、展望台から眺める嵐山の景色は、なかなかのものです。桜はまだ少し先ですが、お堂の横の桜だけ見事に咲いていました。(写真)

 私も、数えで十三歳のとき、母に連れられて虚空蔵さんへお参りに行きました。戦争中それも、もう末期で東京は大空襲に見舞われていました。小学校六年生になった私は、四月の新学期から学童疎開に行くことになっていたので、その前に十三参りを済ませることになりました。姉たちには、十三参りで始めて着せて貰えた振袖姿で晴れやかな写真があったけれど、私の時はもう着物を着るどころではなく、母と二人だけ、モンペに防空頭巾という姿で行ったのを覚えています。さすがに法輪寺にも人影はなく、他に一組の母子が同じようなモンペ姿で、お参りしていただけでした。しきたりをきっちり済まさないと「縁起がようないから」という母に、仕方なくついて行ったものの侘しい十三参りでした。

  それでも「渡月橋を渡るまでは振り向いたら知恵を置いてくる」という今考えると可笑しくなる言い伝えに従って、しっかり前を向いて渡月橋を渡ったのを思い出します。この渡月橋あたりは、4月初めの桜のころは、歩けないほど混雑するので困ってしまうのですが、私も嵐山は四季を通して好きなところです。言うまでもないでしょうが、この辺りには天竜寺、大覚寺など美しい寺が多く、嵯峨野も近くてさまざまな見どころがあります。

<京都市の構想>
 京都市は、10年ほど前に掲げた観光客5000万人構想を二年前に達成したとやらで、今では8000万人もの人が訪れているようです。京都の町中、あちこちにいろんな仕掛けが用意されています。京都駅ビルの活用や、着物姿の人に拝観料や乗り物の無料化、夜の観光地や社寺のライトアップ、町屋の店舗化、スタンプラリーなどなど。観光客が増えたこと!町を歩いていても実感します。

 電柱の地中化や、高さ制限、色規制などで景観をよくしようという試みも今進められているようです。電線が絡み合っている町の風景はよくないので、ぜひ早く進めてほしいものです。ヨーロッパの街では、計画的に作られた美しい景観にすごく感心します。京都で塔や伽藍が台無しになるような建物は止めてほしいものです。新幹線で京都に帰ってくるたびに、京都タワーのヘンな姿が目に入り、何十年も前、建設反対運動をしたけれど、敢え無く挫折した無念の記憶が私に蘇ります。

 桜の季節、桜の下でお酒を飲んで騒がれるのは、花を心から楽しみたい人には大迷惑です。そんなことに煩わされずに見たい人には、植物園の桜がお薦めです。その近くの賀茂川堤の桜は秀吉が植えたとか。哲学の小道、岡崎の疏水からインクラインへ、天神川沿い、松ヶ崎の加茂川べりもなどなど散策をしながら桜を愉しむことができます。

<祇園と女とダブルスタンダードと>
 京都の春は、桜の名所も多く、「都をどり」、「鴨川をどり」など4つの「をどり」が開催され花街の催しも派手で、賑やかです。祇園など花街は、男の遊び場でしたが、この時ばかりは、芸者衆や舞妓の踊りを見に、女性客が集まります。明治期に始まった「○○をどり」は、レビューと同じ感覚なんですね。今も勿論女性客で満員です。

 女性の接客サービスと「性」を売り物にしている花街は、江戸時代から大繁盛で、今人気絶頂の坂本竜馬さんたち幕末の志士も盛んに遊びに行ったようです。とりわけ祇園は、京都市にとって貴重な観光資源です。これってなんだか私たち女性には釈然としないのですが、昔とは違って、今日では芸者衆も舞子たちも、借金で身を縛られるようなことはないといいますが。

 踊りを初め多様な技芸を磨き、今では特別な芸人さんという位置づけにも見えますが。それでも、スポンサーたる「旦那衆」がいなくては成り立たない世界には違いありません。私の母たちの時代、明治期には厳然たる女性のダブルスタンダード(二重規範)があったことに、思いをはせずにはいられません。それはずっと昔廓の文化ができたころからで、大正・昭和と時代が下がっても、女性たちは「玄人」と「素人」に分断されていました。人々の意識は少しずつ変わってきたでしょうが、現にこの花街は連綿と続いているし、普通の市民とは隔絶したところで成り立つ世界であるのです。今もその実態はベールに包まれていてよく判りませんが。

 街から景気のいい旦那衆が激減して、お茶屋のお座敷は観光客や会社の接待などが多くなり、近頃は女性客も増えているそうです。全国からやってくる、舞妓志望の少女たちも多いと聞きますから、感覚もすっかり様変わりしているようですね。これからどう変わっていくのか楽しみでもあります。

(写真はいずれも小さなデジカメで、最近私が撮ったものです。)

カテゴリー:京暮らしつれづれ

タグ:京都 / 中西豊子