エッセイ

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京暮らしつれづれ・5 端午の節句は乙女の祭りから変身した?   中西豊子

2010.04.25 Sun

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 今年はいつまでも寒くて、ぺ・ヨンジュンの映画「4月の雪」の向うを張るように、東京でも4月に雪が降りましたね。お花見は寒かったけれど、おかげで桜は長い間留まってくれました。大好物のさくら餅が、いつもの年より美味しかった気がします。(関係ない!あ、そう!)京都はこれからが御室の桜です。そして、もうそろそろ柏餅の季節ですね。(思いはやっぱり食い気へ走ってる―)

 平安時代よりも早くからあったという端午の節句は、もともとは乙女の祭りだったと聞いたことがあります。旧暦の5月と言えば、田植えのシーズン、昔、田の神を迎える神事も、苗を植える早乙女も、共に主役は女性でした。その祭りのことではなかったかというのです。真偽のほどは判りませんが、お祭りがなんだか目に浮かぶようです。
 
 話は古くなりますが、7世紀初め推古天皇が、牛月(旧暦の五月)の午の日を薬日とした故事が、『日本書紀』に記されているといいます。勢いよく葉を伸ばす菖蒲は、邪気を祓うとされていました。夏には多くの病がはびこる平安時代には、初夏の宮中で菖蒲や蓬で作った薬玉を飾り、病の退散を願いました。端午の夜に菖蒲を枕の下に敷いて寝たのも、古くから伝わる風習です。年老いた祖母が(考えてみたら、今の私より若かったかもしれない!)「病気にならんように」といって菖蒲湯に入り、枕の下に敷いて寝ていましたっけ。そんなことはともかく、男の子の祭りとは全く関係なかったのです。

 午の月午の日の読みからゴロ合わせのようにして、5月5日は端午の節句となったようです。この日、伏見にある藤森神社では「菖蒲の節句発祥の祭り」が行われます。

 菖蒲の「しょうぶ」という言葉から「勝負の神様」に変身、武家政治の時代になると、菖蒲は「尚武」(武を尊ぶ)という意味に通じるとして尊ばれるようになりました。藤森神社では、盛大な武者行列や、駆馬神事などが今も残っています。

 江戸時代になると、端午の節句は遂に男の子の節句と設定されました。私たちも端午の節句と聞いたら、やっぱり武者人形とか、こいのぼりを連想するほどに、しっかり定着していますものね。

 5月と言えば京都では、葵祭があります。京の三大祭りのひとつで、5月15日の上賀茂神社、下鴨神社の祭礼です。京都御所から下鴨神社を経て、上賀茂神社まで、齋王代の輿を中心に平安時代の装束をまとった長い行列が練り歩きます。せっかちな人(イラチといいます)は、「ああ、しんきくさ!」と最後まで見ずに帰ってしまうほど、実にまったりしたのどかな行列です。

 近頃では京都市観光協会が観覧席を作って、観覧券を売っています。何でもお金を取るのには賛成しかねますが、高齢者も増えた今、ゆっくり座って見たい人も多くなったのかも。

 上賀茂神社まで行かれた方には、その近くにある太田神社まで足を延ばされるのがお薦めです。菖蒲とよく似た杜若(かきつばた)の群生が、5月初めごろから見ごろを迎えます。菖蒲のようにまっすぐではありませんが、色といい姿といい、初夏の風情があってとてもいいです。








カテゴリー:京暮らしつれづれ

タグ:くらし・生活 / 京都 / 中西豊子