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親だって遊びたい!・・・けど。  マダム・ルーズ

2010.04.30 Fri

 今年の春、お友達たちとのお花見会でのことです。散策のあと居酒屋さんでカンパーイとやっていると、隣のテーブルには子連れのグループが。このグループの子供のお行儀が悪いこと悪いこと。プラスチックの剣を振り回す、大声で騒ぐ、他のお客さんのコーナーをのぞきこむ、お運びさんとぶつかる、などなど、狭い店内でわがもの顔にふるまうのを、親は放任状態で、無法地帯と化していたのでした。

「信じられない!子供は寝る時間よ!」(「いやいや、まだ8時ですから」)
「私たちの子育て時代には、こんなことありえなかったわよ」(「でも、親だってたまには羽を伸ばしたいですよー」)。
「でも、それでどこにも行けなくって閉塞感がたまっていたことは事実よね」(「閉そく感MAXって感じでしたよー」)
「それにしたってひどすぎるよね。店員さん、アレ何とかしてください」(「そう思ったんだったら自分で注意すべきなんじゃないかなあ?」)
などなど、ひとしきり話題になったのでした。

 先の( )内はマダム・ルーズの心の中のつぶやきでして、つまり友達の発言に賛同していたばかりではなかったのですが、それでもこの状況の中、マダム・ルーズも考え込んじゃいました。自分が小さい子どもを育てていたころはどうだったかな、って。 
 夜遊びしたいお年頃だったマダム・ルーズ、息子が誕生して一カ月後に(つまり、自分の体力が戻るや否や)、子供を一人で家においてムッシュ・オットリと飲みに出かけました。新生児って寝てばっかりなんだから、大丈夫かな―って思ったのです。

 なじみのクラブ(?)のカウンターで飲んでいると、お店のマダムに「ひええ! マダム・ルーズ、飲んだらお乳にアルコールが出るでしょ! 飲んじゃダメよ!!」と一杯でお酒を止められ、「赤ちゃんを一人で置いてきたって? それは危ないって。はよ帰りなさい!」と早々に店を追い出されたのでした。「ひどーい! 私だってお客様なのにー」とは思いましたが、しぶしぶ帰ってみると、息子はギャンギャン泣いておりましたので、まあ帰ってきてよかったのかもとも思いました。

 この経験から、子供を置いておくとまずいことになるかもしれない、ということは了解したので、今度は子持ちのお友達同士で家族ぐるみでの飲み会を始めることとしました。(なんであんなに飲みたかったのか? 遊びたかったのか・・・? 年をとってしまうと、自分でも謎ですが。)回り持ちで、保育園のお母さんやお父さんといっしょに、お好み焼きパーティをしたり、スパゲッティ・パーティをしたり。メニューはどうしても子供の好きなものになりがちではありますが、休日も保育園で仲良しのお友達と遊べるのは子供たちにとってもうれしいことで、親にとっても大人数の大人で大人数の子供の面倒をみる(みない?共同責任なのか、共同無責任なのか・・・??)のは楽でした。

 今年の花見会の後で会った若いお父さんお母さんも、持ち回りホームパーティにしたら、よそのお客さんから白く冷たい目で見られなかったのになあ・・・。

 でも、保育園のお友達同士ではない人に、子供のいる家に遊びに来てもらうのは、ちょっとつらいんだよねえ。子供のいる家って汚くなっちゃうから、「お互いさまよね。うちも汚いんだよ」って了解してもらえる人でないと、「どうしてこんなに散らかっているのん?」と言われちゃいそう。そうなると、来てもらうのは気鬱になっちゃうからなあ。でも、それでももちよりホームパーティで食器も使い捨てにしちゃって(この際、京都議定書のことは忘れて)、準備や片付けの負担を少なくしてやる方が、気疲れしないんじゃないのかなあ。

 ここまで考えて、はたと気づく。あの親たち、周りのお客に気い使ってたんだろうか? 親が全く気を使っていないから、子供が傍若無人になったていたのではないだろうか?

 うーん・・・他人に気を使うのってどっと疲れるんだけれど、他人に気を使わないのも「不細工」だよね。そのバランスが難しい・・・。遊びたい親に寛容な社会であるべきだとは思うんだけれど、寛容さを当然視して他者に甘えるだけでもおかしいんじゃないのかな、と思うようになった私は、人間が練れてきたということ? それとも単に年をとったということなんでしょうかねえ・・・?

タグ:子育て・教育