毎日新聞「今週の本棚」で加藤陽子さんの書評を、いつも楽しみにしている。近くの書店で見つけた加藤陽子著『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社、2016年)を読む。「紀伊國屋じんぶん大賞」(2017)受賞。もう7刷だ。
ジュンク堂書店池袋本店から「「作家書店」をやってみませんか?」と誘われて、中高校生たちを相手に連続講座を全5回「作家書店特別企画 加藤陽子の連続日本近現代史講座」と「特別補習講座」1回(東京大学にて)、それをまとめて書籍化したもの。呼びかけたのはジュンク堂の3人の女性社員と編集担当の朝日出版社社員。全員、女性だ。いいなあ。
初版から8年後の今も、ちっとも古くない。まさに加藤さんが予見したように、今の日本は刻々と危ない「時」を刻みつつあるからだ。
近現代史の丹念な史料調べに基づく講義に、加藤さんから問われる中高校生たち(それも女子学生が多い)の、切れ味鋭い受け答えに惚れ惚れとする。加藤さんもまた、それを受けて自らの解釈をどんどん深めてゆく。
高校の頃、近現代史は受験にあまり出題されないので、詳しくは習わなかった。さらっと習った「戦争まで」の内容と、この本に記された史実とは、ずいぶん違うなあと、びっくり。もう一度、きちんと読み直さなくちゃ。しかもその歴史が今また繰り返されようとしている。危ないなあ。何としても食い止めなければ。
加藤さんは「今、日本と世界の双方で、国家と国民との関係の軸が、過去にない規模で大きく揺れ動いている。そのための選択や方略を過去の歴史から知ること、それが今、最も大切なことだと考える」、「国や個人が選択を求められる時、当時の為政者やジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した選択肢を明らかにしつつ、日本側が、それに対置した選択を正確に再現しながら、世界と日本が切り結ぶ瞬間を捉えようと試みた」と、本書の趣旨について語っている。
「戦争まで」に、世界が日本に「どちらを選ぶのか?」と問いかけた交渉事は3度あったという。1931(昭和6)年9月、関東軍の謀略によって引き起こされた「満洲事変」に対し、国際連盟に設置された「リットン調査団」による「リットン報告書」をめぐっての交渉と日本の選択。
1940年9月、「日独伊三国軍事同盟条約」締結で、イギリス、アメリカの動向も視野に入れながら、ドイツとの外交交渉や国内で合意形成していく過程。
そして1941年4月~12月までの日本とアメリカの間の日米交渉について。その交渉が決裂した後、同年12月8日の真珠湾攻撃までの経緯については、実証的な歴史研究のほか、今なおさまざまな解釈がなされているという。
「戦争まで」の、これら3つの交渉は「わずかな偶然が世界のありようを大きく変えてしまう激変期でもあった」と加藤さんは言う。
歴史を決めた交渉と日本の選択の「失敗」について、今まで知らなかった数々の事実が次々と浮かび上がってきて、またまたびっくり。
戦争と政治・外交は地続きであること。戦争は相手方の権力の正統性の原理である「憲法」を攻撃目標とすること。交渉は「言葉」によってなされること。そして「時間」はどちらにも平等に流れてゆく。しかし戦争が始まると、もう多くの犠牲者たちは見えなくされ、記録は明らかにされないまま葬られてしまうことだってあるのだ。
1932年2月、リットン調査団が来日。10月、「リットン報告書」が国際連盟に提出される。11月、日本全権大使の松岡洋右ら各国の大使が集まり、国際連盟総会が開かれた。結果、日本は総会決議案を拒絶し、1933年3月、連盟に「脱退通告」をした史実は、私も少しは聞きかじって知っていたけど、歴史の舞台裏はそんなに単純なものではなかったことを本書は明らかにしてくれる。
リットンが提示した「世界の道」とは何か。リットンは「満洲国」の実態は「欺瞞」であること。現地の人々が民族自決でつくりあげた国家ではなく、日本の傀儡だとしつつも、日中が交渉のテーブルにつくための条件を書き、「世界の道」を準備して日本に呼びかけた。それを受けて全権大使の松岡洋右は、日本の内田康哉外相らの反対意見に抗い、粘り強く反論していく。
その10年後、この試みは繰り返される。1941年4月~12月の日米交渉でアメリカの国務長官コーデル・ハルは、野村吉三郎駐米大使との交渉で、「日本が中国に対して善隣外交、主権及び領土の相互尊重の原則を認めるならば、アメリカは中国に対して日中間の戦闘行為の終結、平和回復のための交渉を促す」と、もう一度、「世界の道」を呼びかけたのだが、日本の選択は「国際連盟脱退」と「日米開戦」だった。
日本の選択の「失敗」はどこにあったのか。また再びの過ちを繰り返さないために過去の史実を踏まえながら、未来の、あるべき選択へと結びつけていかなければ、と本書を読み進めつつ、しみじみと思った。
ここで松岡洋右にふれて以前、書いたことを思い出した。シクルシイ著『まつろはぬもの――松岡洋右の密偵となったあるアイヌの半生』(ヤイユーカラの森発行、寿郎社刊、2010年)。もう30年以上前に、ある編集者に頼まれて、シクルシイ(和名・和気市夫)の原稿入力を手伝ったことがある。シクルシイは、子どもの頃から神童と呼ばれ、1929年、11歳で満鉄傘下のハルピン学院に入学。英・仏・露・中・モンゴル・ラテン語・ギリシャ語と体育、銃器、無線通信、暗号の特訓を受け、13歳でロックフェラー財団に属する北京・燕京大学で国際政治と東洋史を学ぶ。当時、満鉄の理事を務めていた松岡洋右の命を受け、彼は中国・中央アジア・南アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカへの旅を続ける。
松岡の密命は「日本軍の戦闘中に起こった暴虐行為の真偽を調べること。作戦行動に関係なく起こされた人倫にもとる行為を調べること。中国、東南アジアの思想傾向を調べること」だった。そこでシクルシイは中国人に身をやつし、南京虐殺直後の現場に入り、マレー半島一帯での俘囚虐待や、従軍慰安婦たちのありようを、その目で現認する。彼の言によれば「いかなる時も、いかなる場でも、自ら人を殺したことはない」という。
『まつろはぬもの』と『未完の旅路』
2つ目の「日独伊三国軍事同盟」締結の交渉について。軍事同盟に書かれる必須要素は何か。「仮想敵国」「参戦義務」「勢力圏」だという。1940年9月、御前会議で「日独伊三国軍事同盟」が承認される。これはドイツを牽制するための同盟だったという説。第一次世界大戦で日本は旧ドイツ領の赤道以北の南洋諸島を獲得し、サイパン、テニアン、パラオ、トラックなどを委任統治していた。そこで三国軍事同盟の講和会議で「フランス領インドシナ、オランダ領東インド、南洋諸島もそのまま持っていてよいですね」とドイツ側への確認を主張しなければと、日本は考えたのだという。つまり「日独伊三国軍事同盟」の戦勝の暁には、ドイツを封じてヨーロッパの敗戦国の植民地を獲得しようと日本は目論んでいたのだ。まさに「大東亜共栄圏」の由来だ。へぇ、そんなことを企んでいたのか。知らなかったなあ。
翻って現在の「軍事同盟」の本質とは? 2年前の2022年7月に死んだ安倍晋三が、2014年7月、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に限り、憲法上、集団的自衛権の行使が許される」とする「閣議決定」を行った。これまでは「日本は国際法上集団的自衛権を保有しているが、憲法九条が課す制約により行使できない」とされていたのだ。
さらに1978年、日米ガイドラインがつくられた時の防衛範囲は「日本本土」だった。それが1997年に改定され、防衛範囲が「周辺事態」となり、2015年には「無制限」(アジア太平洋地域、これを超えた地域の安全と平和)に広がっていったのだ。もう戦争は、無制限にできる体制じゃないか。
3つ目、1941年の日米交渉について。先に述べたコーデル・ハルの日本への呼びかけがあったにもかかわらず、1941年7月の御前会議で、なぜ「対英米戦を辞せず」の文言が入ったのか。日米交渉の裏には、こんなにも複雑怪奇な動きがあったのかと読んでいて驚く。1941年7月の日本の南部仏印進駐作戦。8月、アメリカの対日石油全面禁輸措置。9月、御前会議で「帝国国策遂行要領」決定。10月、東条英機内閣成立と、軍事色が、どんどん強まっていく。11月、アメリカの「ハル・ノート」の提示。近衛文麿・ローズヴェルト大統領との会談に向けた動きも叶わず、まさに「わずかな偶然が世界のありようを変えてしまう歴史の激変」をハラハラドキドキする思いで読みこんでゆく。とても書き切れないので詳しくは、ご一読を。
そして日本は敗戦を迎える。敗戦3カ月後、「大東亜戦争調査会」が幣原喜重郎総理のもとにつくられた。GHQの憲法草案には「戦争放棄」の主旨はあったが、「平和主義」や「平和」という発想はなかった。しかし日本側の発案により、憲法第九条1項上段に「平和に関する記述」が入れられたのだという。
憲法第九条「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。と明記されている。
政府や為政者の主張を制約するものは何か。加藤さんは、「有権者の意向」と「憲法」そして「運動」だという。これらがどう揺れ動くのか、この基軸を確実にするために必要なことは?
本書の最後は講座に参加した高校生たちの言葉で結ばれている。「一つの出来事には、それに賛成する人、反対する人、行動を起こす人、迷う人など、多くの人が絡んでいて、それぞれの思いがあり、結果として歴史があるんだなって。これから生まれてくる歴史もきっと、人の思いによって、良くも悪くもなっていくんだと思います。だから、過去を学ぶことに、未来を作る希望を見いだせるのかなって」。
こんな若い人たちがいると思うと、ほんとにうれしい。あとは彼ら彼女たちに、これからの日本の行く道を、しっかりお任せしよう。「あとは、よろしくお願いね」と、心からの希望を託して。
2024.07.20 Sat