2011.03.10 Thu
BL的読みも面白いのだが、実は、私にはひそやかな、GL的読みの楽しみがある。
小学校を卒業して、中学生になるまでの間の春休みに、なんか、やたらと世界文学全集というのを読んだ。児童文学全集は、なぜか、もう卒業しないといけない感じになっていて、いよいよ、一般向けに出版されている世界文学全集へと足を踏み入れて行く、という感じだった。ずいぶん、背伸びもしていたのだろうが、夢中で、世界の名作と呼ばれているものを読んでいた。
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ジィドの『狭き門』もその頃に読んだのだが、アガペーだのエロスだの、そんなことは理解などしていなかったのに、わかった気になって読んでいたのだと思う。わかった気になっていただけ、というのがはっきりわかるエピソードがある。私は、主人公のジェロームを、どういうわけか、女の子だと思って読んでいた。アリサへの思慕も、なんの違和感もなく(苦笑)。ふと、あれ? これ、男? と思って、再度冒頭から読み直した記憶がある。どうして、途中で男だと気づいたのか、今ではそれも忘れてしまったが、、、。そして、アリサへの思慕を、うん、わかるわかる、と、共感していた。私は、断然、アリサ派だったのだ。さらに今思えば、ジィドはゲイなのだから、何か、ヘテロチックではないものを発信していたのだろうか。そうかもしれないな。
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後年、私よりもずっと年の若い友人と話をしていて、私が若い頃にベストセラーになった『愛と死をみつめて』(団塊の世代あたりは、ああ、、、あれ! と思われるであろう、あれ!だ。吉永小百合がヒロインを演じて映画にもなった。)について、話題にしていた時、その若い友人が、あの「マコとミコ」は、女同士だと思っていた、とわかって、びっくりしたことがある。その友人は、映画などは見たこともなく、マコとミコという名前から女同士だと思っていた、というのだ。その時に一緒に見ていたのが、歌謡曲の歌詞集だった。そこに書かれている『愛と死をみつめて』の主題歌のイラストも、女性同士が見つめ合っているものだった。「ほらね!」と、その友人が指さして、女性同士だと思っているのは、自分だけではない、と言った。そのイラストを描いた人も、若い人だったのだろうか。
私には、ほぇ~、という感じ。世代が代われば、こういう誤解もあるのだと、感心しつつ、興味深い出来事だった。
で、考えてみれば、自分の妄想についても、ひょっとして、共感してくれる人もいるかもしれないので、告白してみる。
実は、私は、あの、NHKの朝の連ドラのヒロインをGL的に妄想しちゃう癖があるのだ。さすがに、このあいだまでの『ゲゲゲの女房』は出番がなかったが、他のは、たいてい、素敵に成り立ってしまう。NHK的な優等生の、超明るいキャラのヒロインの、その底抜けの明るさに陰りが差すのは、秘められた恋のせい。ひそかに憧れるおねえさま(もしくはおばさま・・・これは、ちょっと淫蘼な感じがしてドキドキする)。
ヒロインのまなざしが、妙に意味ありげに登場するイケメンを素通りして、その後ろにいるおねえさま(もしくは、おばさま・・・あぁ、ドキドキ)に吸い寄せられるシーンなどを想像してしまう。
ヒロイン役の女優が、美人なほど、妄想がたくましくなるのは、なぜかしら(笑)。美人のヒロインが、会社の先輩に連れられて出入りするようになった居酒屋に、色っぽいママがいて、ヒロインはことあるごとにそこに行く。目的は、ひたすらママなのだが、他の人はそれと気づかず、最初にその居酒屋に連れて行ってくれたイケメンの先輩を慕っている、と誤解している。でも、ヒロインの目は、ママに引き付けられっぱなし。あぁ、なんて、ドキドキするシチュエーションかしら。ママ役の女優は、あの人か、この人か、とあれこれ、考えるのもまた楽しい。やがて、ヒロインの思いは届き、店を閉めた後、ママは粋な身振りで、ヒロインを奥にいざなう。あぁ、そこまで考えるなんて、、、(赤面)。
また、場合によっては、ヒロインの相手は、年下の少女だ。その時は、ヒロインは、あんまり底抜けの明るさキャラではなく、ちょっとしっとりめの人。もちろん、美人。私の頭の中には、はめこみたい女優はいるけれども、ここでは言わない。とにかく、ヒロインは、年下の美少女に切ない思いを抱く。少女は、若さゆえの残酷さで、ヒロインの心を振り回し、ヒロインは翻弄されながらも、思いが強まるばかり。その合間にも、NHKのヒロインらしく、他人にお節介したり、挫折しそうになってはめげずに何かけなげに頑張るのだが、その折々には、年下の少女がヒロインの心を乱すのだ。でも、やがて、その少女は、じらしてじらした挙句、ほんとうは自分の中にもヒロインに激しく惹かれる気持ちがあることに気づき、二人はお互いを求め合う、、、、。あぁ、それ以上、話を進めては、いけない、、、。(悶)
って、言うのを、あのBL的に、堂々と物語れないのは、なぜだろうと思うのだが、それはやはり、自分の物語になってしまうから、なのだろう。BLは、女性にとって、当事者ではないフィクションに置いておけるが、GLは、フィクションであっても、現実と交差するのだろう。私の中のGLをカミングアウトすれば、私は、現実の中で、まわりにいる友人知人など、自分以外の女性に対して、そういう欲望を持つ人として、認識されるのではないか。実際のところ、GL的妄想の際には、現実世界でつきあいのある人は、私の頭の中には登場しない。だから、私は実際につきあいのある人を使って、不埒な妄想をしているのではないのだが、なぜか、そこから、私のセクシュアリティ、つまり欲望の向かう方向を詮索され、そこから、私の人間性や傾向や「変さ」を解釈されるのはいやだなぁと思うと、やはり、カミングアウトできないのだ。
確かに、好みの女優はたくさんいて、つい先ほども引き込まれて見てしまったドラマが、好みのタイプの女優が二人出ていたので、こんな人たちと一緒にいられたら、天国だろうなぁと、思わずゾクゾクしていたりはする。どちらも色っぽくて、私は悩殺されている。1対1だと重そうだから、やっぱり、二人に囲まれているのがいいなぁ、とか、いとも厚かましい妄想に入っていたりはするが、それは心の中の自由だ。
これを告白するのは、やっぱり、とても危険な匂いがする。GLって、女には、危険な遊びだわ。
カテゴリー:萌え的「世界の名作」 / やおい/BLの魅力