2011.06.01 Wed
やはりすべて直後にメルトダウンしていたのだ。震災後の2カ月、民主主義国家でとは思えない情報コントロールと繰り返される大本営発表、そして批判的な人々のメディアからの追放、排除のあげくに、当初から強く懸念されていたとおりの状況が報告されたのだ。政府、東電は言うまでもないが、とりわけ文部科学省や気象庁の責任は重大である。5月15日にNHKのETV特集で放映されたドキュメンタリー「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は直後から被爆地に入って測量を続けた貴重な記録で、厚労省の職を辞して測量を続けた研究者や番組制作者に敬意を表したい。しかしこの情報が2カ月もたってからではなく、もっと早く放映できなかったのかを思うと、残念である。もっとも高い放射線値の計測された地域には、すでに文部科学省の測量機が設置されていて、文部科学省HPにその数値は公表されているが、計測地については伏せられていたのだ。
税金20億円をつぎ込んで開発したSPEEDIをはじめ、人々に危険を知らせるためのシステムが、本来の目的に意図的に役立てられないことは、背任行為そのものである。大手メディアが何を報じたか、そして報じなかったかもまた検証すべき課題である。テレビや記者会見から排除されたジャーナリストたちによるネット情報の多くがはるかに正確な情報を提供してきた。そしてネット情報は流言飛語であるとされて規制の対象にまでなりかけているのである。全国各地で今やほとんど毎日のように行われているデモや抗議行動などの一般市民の動きもまたほとんど黙殺されているが、不当に逮捕され今なお勾留されている人も出ている。こうした情報もネットを通じて辛うじて知ることのできるものだ。
日本の政治経済メディアの構造的馬脚が大災害が作り出した空隙によって、ほんの少し顕わになっている。この空隙がするすると閉じてしまわないよう、私たちは目を凝らしていなければならない。不幸中の幸いは対抗メディアというツールの存在である。
放射線汚染は一刻も早く危険な場所から逃げなければならない。目に見えないからこそ、情報が重要なのである。もし正確な情報が出せなかったというのなら、悲観的な情報をこそ流すべきであろう。現状は真逆の事態だ。知らされたときにはもうかなりの手遅れである。この作為的不作為は犯罪行為に等しい。
放射線の影響についてはわからないことも多いかもしれない。しかしはっきりとわかっているのは若い世代への強い影響である。30代以下のすべての人々を保護する対策が火急の課題であったはずである。危険な現場で過酷な労働に従事する人々の寝食の状況が明らかにされたのは、現場から帰還した職員の情報によるものであった。責任と決定権をもつ人々もメディアも遠巻きにする中、危険な作業に送り込まれている人々の中には確実に若い世代の男女がいる。警鐘を鳴らすことを作為的に怠り、紙面と画面を大本営発表と美談で埋め尽くそうとしてきた大手メディアは時に膨大な紙と電波の無駄遣いにさえ見える。
労働の規制緩和の時代に非正規化は女性と若い男女に拡大した。まさに放射能汚染の影響がもっとも強い層がそこに含まれている。危険きわまりない過酷な労働現場で働く作業員の多くは不安定な身分の下請けの人々である。
子どもに「年間20ミリシーベルト」という文部科学省の驚くべき基準(http://wan.or.jp/emergency/?p=320 を参照されたい)に象徴的に示されるように、子ども、若者、妊産婦、授乳期の女性、そして親になる可能性のある世代をどうやって被曝から守っていくかという視点が決定的に不足している。私は今回若者にボランティアを薦めたくはない。40歳以上、とくに団塊世代を投入するべきではないか。決定権をもつ人々は次世代への配慮があまりに欠落してはいないか。
私は子どもたちと、これから子どもを持つかもしれない若い世代が心配でならない。どうせ放射線の害が出る前に寿命が尽きるであろう世代で元気の余っている団塊世代の方々は、今こそ活躍すべき時であろう。そして政策決定は、この放射線を回避しなければならない若い世代へと速やかに移行していかねばなるまい。
もっとも放射線の被害に遠い世代の男たちが総力を挙げて原子力を政治的経済的に推進してきたことは確かである。この間大手メディアに登場する関係者は高齢男性で埋め尽くされている。被災対応についても阪神淡路大震災の経験をふまえて女性の視点は早くから指摘されながら、十分に配慮され実践されているとは到底言いがたい現状である。
私たちには想像力はある。自分が直接経験したことがなくとも自分個人の身に直接危険は乏しくとも、自らのこととして思い、判断することは可能であり、経験や立場が決定的に人間を分け隔てするのではない。しかし、私たちの想像力には限界もある。70年代に心底恐ろしいと感じていた原子力発電が、スリーマイル、そしてチェルノブイリで決定的な事態を引き起こしたにもかかわらず、その後の原発問題への社会的関心は希薄になっていたことは否めない。そこには原発推進を国策とする当時の政府与党や電力会社、関連企業などの強力な広報=洗脳活動と批判の弾圧があったことは確かである。しかもそこには巨額の税金と公共料金による利益が投入されてきた。私たちは自らの税金と公共料金によって、自らを洗脳させられてきたのである。非常に重要な問題であることは頭ではわかっているのに、私の中での優先順位が下がっていた。70年代には強い関心を持って行動に参加していたのに、このところは芦浜や祝島の魚やお茶を購入するくらいの協力しかできていなかった。
チェルノブイリ後の反原発運動は母の立場からの女性の動きがイニシアティヴをとっていたが、それに対する女性からの批判も少なくなかった。私自身も「子どものため」というスローガンへの疑問を述べたことがある。「命を産む母親」という母親大会のスローガンにも感じた疑問である。女個人の自己主張はわがままと言われ、子ども、家族など、他人の利害を通じて間接的にしか女の主張は受け入れられない。こうした言説に飲み込まれるのは納得が行かなかった。
しかし一方他人の生存への共感と配慮(ケア)は、たとえ女が生まれ持った性質ではなくとも、女に割り当てられ、その結果としての経験の蓄積は圧倒的に女性にある。しかもそのような傾向は「自立」の不足としてしかみなされず、「合理的経済人」に対する二流の存在とみなされてきたのである。「本質主義」に対する批判は、ジェンダーが女性に割り当て、価値を切り下げられてきた身体、自然との関係性を最重要課題とした70年代フェミニズムの視点を葬るものではなかったはずである。
自分自身が母親であるか否かという経験が重要なのではない。次世代に大きな被害をもたらすこの事態を、認識しつつ阻止できなかったことの責任を私自身強く感じざるをえない今日の事態において、かつても今も他者とともに生きることを割り当てられてきた女性の視点が、女性自身の自己主張と何ら対立するものではないことは、もはや明らかであろう。
マスコミが報道しない「女子ども」のための情報を発信できるネットの有用性を、今ほど感じたことはなかった。女性たち個人の資金と労力の提供で運営されているWANの役割は今後いっそう重要なものになると思う。